新井 勇太「人生を込めた料理」
1.「新世紀エヴァンゲリオン」で育った
公開中のアニメ映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』。
もともとは1995年から1996年にかけてテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」として放映されていたが、1997年には通称「旧劇場版」、2007年から2012年にかけては通称「新劇場版」3作品がそれぞれ劇場公開され、26年という四半世紀の時を経て、ついに物語が完結した。
90年代の不況や社会不安などが反映された作風は当時の社会現象となり、「新世紀エヴァンゲリオン」は90年代を象徴するだけでなく、続く2000年代のサブカルチャーの基礎になったとさえ言われている。
新井勇太さんもこのアニメに大きな影響を受けたひとりで、料理人としての独立を進めるなか、心の支えにもなっているようだ。
新井さんは、1983年に東京都で2人きょうだいの長男として生まれた。
両親が共働きで家を空けることが多かったため、新井さんは祖母のもとで「お婆ちゃん子」として育ったようだ。
「小学校低学年の頃、自分の容姿をいじられて虐められていました。自分ではなんでいじられていたのか分かっていなかったんです。ある日、虐められている最中に泣きながら相手に殴りかかったら、次の日から虐めはなくなりました」
中学校では、先生に好かれてはいなかった。
そのため、友だちと同じ点数であっても、新井さんのほうが内申点は低く、公立学校へ進むことが難しかったため、卒業後は都内にある私立高等学校へと進学した。
「テニス部へ入っていたんですけど、高校1年の後半になると、婆ちゃんの調子が悪くなってきたんです。それまで、婆ちゃんが3食ともつくってくれていたから、お小遣いと引き換えに部活を辞めて、僕がご飯をつくるようになったんです」
母親に料理のつくり方を教わりながら、仕方なくつくっていたが、このときは料理人になることなど夢にも思っていなかったようだ。
2.祖母との思い出
大学は推薦で、中央大学理工学部へ進学した。
「婆ちゃんしか家にいなかったから、小さい頃からアニメばかり観ていたんです。特に『新世紀エヴァンゲリオン』などのロボットアニメが好きだったので、理工学部を選んだんですよ」
そういう理由で学部を選択したため、勉強も好きではなかった。
授業には熱心に耳を傾けることはなく、友だちと麻雀ばかりしていたという。
飲食店やスーパーの野菜売り場でアルバイトとして働き、精を出した。
大学3年生の冬が過ぎても、将来の夢は持てずにいた。
「将来、サラリーマンになるのは嫌だったんで、じゃあ何ができるんだろうと考えていました」と当時を振り返る。
大学4年生になり、研究室に所属した途端、先輩から「研究も就職活動もしないで、お前は一体どうしたいんだ。自分で進路を決めろ」と叱咤激励を受け、本格的に将来のことを考えるようになった。
家でご飯をつくってきたことや居酒屋でアルバイトをしていたこともあり、料理へは親しみを抱いていた。
そして、もうひとつ。大好きだった祖母との思い出に遡る。
「料理が好きな婆ちゃんのために、病室にケンタッキーを届けたんです。でも、婆ちゃんは一口しか食べずに『残りは食べて良いよ』って言ったので目の前で食べてたら、『美味しそうに食べるわね』って笑っていたんです。その光景がずっと頭に残っていて」
新井さんは料理人になることを決意し、都内の調理師専門学校へ進んだ。
3.そして、フランスへ
1年間学んだあと、2年生のときには、フランスへ留学。
半年間は寮生活を送りながら、フランス校へ通い、残りの半年はフランスの南西部ランド地方にある人口数百人の小さな村、ウジェニー・レ・バンのなかにある高級レストラン「レ・プレ・ドゥジェニー」へ研修に行くことになった。
ここは『ミシュランガイド フランス篇』で三ツ星を毎年獲得し続けているレストランで、シェフのミシェル・ゲラールは、1958年にフランス料理界最高峰の称号 “M.O.F.”を獲得し、こうした高級レストランでの美食を追及する一方で、キュイジーヌ・マンスールという脂肪分を抑えた痩身料理を始めたことでも、その名が知られている。
村のなかには、3つ星レストランとホテル「レ・プレ・ドゥジェニー」を筆頭に、ダイエット料理を提供するダイニングとホテルを備えた「メゾン・ローズ」、焼肉料理を中心にしたレストランを併設した「フェルム・オ・クリーヴ」など、3つのレストランと4つの高級ホテルを敷地に併せ持っており、ミシェル・ゲラール夫妻によってリゾート地へと変貌を遂げた場所だ。
「レ・プレ・ドゥジェニーへ手伝いに行ったとき、残り物で『アミューズ』と呼ばれるコースの前に一口で食べられる、いわゆる『先附』をつくったら、その日の料理に採用されたんです」
料理の腕前を認められた新井さんは、その日の夜にシェフに呼ばれ、「来年はワーキングホリデーを取得して戻ってきてくれ」と声を掛けられた。
その言葉通り、いちど11月に帰国して3ヶ月後に再度渡仏。
レ・プレ・ドゥジェニーでは魚料理の担当になり、先輩と2人でワンシーズンの料理をつくった。
日本では扱うことのできない新鮮な食材と出合うことができたのは、良い思い出のようだ。
「交通の便も悪くて、隣の村へ行くのに自転車で1時間かかっていたので、働いている間、ほとんど村から出ることができなかったんです。レストランと自分の家を往復する毎日に次第に精神的に参ってしまったんですよね」
4.独立への道
翌年11月に帰国し、日本に伝手もなかったため、みずから就職活動を始めた。
シェフの印象も良く、店の雰囲気もあったことから就職したのが東京都港区にあった老舗のフランス料理店「レストラン クレッセント」だ。
23歳で渡仏し有名店を渡り歩き、1997年に「クレッセント」の料理長に招聘されて帰国したシェフ、磯貝卓のもとで学びを続け、最終的には上から3番目のポジションにまで上り詰めることができた。
「トマトのコンプレッション プラムオイル風味」などのスペシャリテや看板メニューは、ほとんどつくることができたという新井さんだったが、コロナ禍の影響もあり、2020年10月31日をもって、レストランは閉店。
63年の歴史に幕を下ろすことになった。
5年前から独立のチャンスを伺い、本格的に貯蓄を続けてきた新井さんは店舗閉店に伴い、独立を決意。
現在、八王子市内で開業準備を進めている。
店名は、フランス語で「贈り物」を意味するcadeau(カドー)と名付ける予定だ。
「誰かのためにプレゼントするような魅力的なフランス料理店にしたい」と意気込みを語る。
「八王子近辺の農家から食材を仕入れて料理をつくっていきたいんです。僕の店が有名になれば、仕入先の農家の人たちも得をする。それが理想ですね」
5.人生を込めた料理
「新世紀エヴァンゲリオン」の総監督である庵野秀明は、「自分やスタッフたちがアニメほか映像作品を観て育った世代であり、無数のアニメや実写作品のパロディーによってしか作品を作ることができない」と幾度となく語っている。
そして庵野によると、「唯一のオリジナルとは自らの人生であり、そのオリジナルを作品に注入することで、作品をオリジナルたらしめる」ということのようだ。
「料理って基本的にはレシピ通りにつくれば、誰でも同じ料理を再現できてしまうんです。そうしたときに、そこにオリジナルを持たせるためには僕が歩んできた人生や八王子の食材を使うことしかないのかなと思うんです」
2010年、フランス料理はユネスコの世界無形文化遺産に選ばれた。
その理由としては、「集団や個人の人生にとって最も大切な時を祝うための社会的習慣であり、無形文化資産としての条件を満たしている」と述べられている。
人生における最も重要な瞬間を祝うために、フランス料理が最適ということなのだろう。
新井さんは、これまでフランスや東京の一流店で修行を重ね、多くの人から影響を受けてきた。
それが個性となり、新しい店舗でもきっと魅力的なひと皿を紡ぎ出してくれるはずだ。
「僕にとっては祖母の存在って大きすぎて、亡くなった実感がなくて2週間くらい経ってからやっと涙が出てきたんです。あえてお墓参りも行かないようにしていたくらいですから」
人生の集大成とでもいうべき独立開業に向けて、新井さんは歩みを進めている。
そんな歩みを、天国で大好きな祖母も微笑んでいることだろう。
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