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『阿寒に果つ』

 渡辺淳一の『阿寒に果つ』を読み返してみた。随分昔に読んだこの小説がもう一度読んでみたくなって取り寄せた。

 中公文庫から出ているこの小説はけっこう分厚いけど、あっという間に読める。

 渡辺淳一氏の初恋の女性がモデルになっている私小説であるが、主人公の田辺俊一が、当時は一面しか見ていなかったからと、水晶の六面を完全にしていこうと純子が関わった男達に話を聞きにいくという話。実際に札幌の美術界に鮮烈にデビューしてからのこの純子という女性が多くの大人の男達に残した爪跡というのは鮮やかなものだったようだ。

 若い頃の読後感は、「死に魅入られた少女」という印象だった。エキセントリックな短い人生を生きた純子の自死という選択が、自殺した高校の上級生を思い起こさせた。死の理由は他人には分からない。「不可解」を残して逝った人への思いを重ねた。

 10代の多感な時代、死という言葉の暗さに、神秘に引きつけられてしまうと感じていた。ペギー葉山の歌った『学生時代」の歌詞;讃美歌を歌いながら、清い死を夢見た…。確かに10代の少年や少女には死に魅入られる瞬間がある気がする。それは青春独特のものだと思うのだ。愉快な学生時代を友に囲まれて平凡に無事に過ごせれば、そういう夢見病からも解放されるはずなのに。特殊な環境に置かれた純子は、死へと突っ走っていってしまった。

 数年前、渡辺淳一文学館を訪れたことがある。そこで純子の特集がされていた。『阿寒に果つ』は好きな小説だったので関心を引いた。そしてはじめて、純子が実在の人物だと知ったのだった。文壇や美術界のサロンに出入りすることで大人の世界を垣間見て、のめり込んで、はてはそこのアイドルとなり、女王になっていく純子。美しい少女がちやほやされて、どんどん派手になっていく。自分の魅力を自覚した小悪魔が男達を手玉に取り始める。常套句を使えば、道を踏み外したのだ。若い頃に読んだ時は、たぶん、ちょっとした憧れを持ったのかもしれない。路傍の石のような青春だったからだ。

 数十年経って、また読み返してみて、複数の男性との交友を持ち、それに一時のめり込んでは次々に捨てていった彼女の心象風景を想像しても「不可解」への不完全燃焼が残る。

 若い頃にはまったく記憶に残らなかった姉とのエピソードを読んで、はっきりと言葉にはできないが、純子の心のなかの多くの部屋の一つが開いたような気がした。この姉の章の前に、主人公が千田医師と邂逅する章がある。千田医師の言葉に、男に向ける愛以外に愛を持っていたのではないかというような証言がある。そこで、私には、ああ、姉だなという予感があった。

 姉への強い想いは、姉の恋人を奪う行為に走らせ、姉と男を共有した時期を持っていた。姉を苦しめるためだったのか、姉と同じものを自分も手中にしていたかったのかわからないが。

 多くの男が惑わされて、時が経っても心の傷として純子とのことを鮮やかに覚えている。女から見て、「俺こそが一番純子に愛された」と思っているのは男の悲しさだ。そう思わないとやりきれないからなのか、それとも本気でそう思う自尊心を持つほどの男達と純子はかかわってきたのか?私から見ると、誰も愛していなかった、それこそが一番納得できる答えだと思う。

 もやもやとして、ずっと心に残り続ける純子という、多くの男にとってのファムファタールという存在。不可解な行動と心情。そして、その結果としていきついた「死」だったのかとも思う。

 そして、芸術家の死という、何処の国でもよく耳にするものの一つとしての死だったという解釈もなされるが、小さな肩に期待を背負うことの重圧があったというのは本当かもしれない。疲れたから、死が魅力的に見えたのかもしれない。

 カタルシスがない小説だなと思った。だが、多分、何度もまた読みたくなる小説だ。

 小説には、知っている土地が出てくる。札幌の雪の風景、薄野という繁華街の雑多さと、淫靡さと…。純子が師とスケッチ旅行に出かけた積丹半島の雄大さは目の前に浮かぶ。そして、純子が死んだ阿寒…。北海道の雪の風景はなにもかも飲み込んでしまう真っ白な原野だ。魅入られたらもう戻ることはできない。雪は何もかもを無にしてしまう。そんな恐怖と静寂と、そして、矛盾するが、温かさを与える。雪がずっと降っている小説だった。雪の中をずっと歩いている小説だった。

 清冽な雪の風景ばかりが目の前に浮かぶが、札幌の初夏、リラの花咲く頃、夏は美しくて寂しい。大通公園で短い夏を楽しむ人々が闊歩する中を、この土地はもう自分の土地じゃないという寂寞感を胸に抱きながら歩いた今夏。そんな思いが無性に『阿寒に果つ』を読みたくなった理由かもしれない。


 


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