私はなぜ「ありがとう」が苦手なのか

「身近な人に毎日感謝しろ」というのは、よく聞くように思う。
私はどちらかというと、身近であるほど「ありがとう」を言いにくいタイプである。
この基準で言うと、紛うことなきヒトデナシである。このロクデナシ。

(よくあることだからこその言説かもしれんが)


それはそれとして、自分が実際に「ありがとう」を使う時はどんな時か、というのを考えてみよう。

(※なんとまあ、ありきたりなテーマでありますが、自分の整理のために書いています。内容の重複などはご容赦ください)


自分では「自分が本当にありがたいと思った時」にこそ「ありがとう」を使いたいと思っている。とことん気持ちに正直でありたい。
ただ、現実的に実行できているかと言うと、かなり怪しい。挨拶的な「ありがとう」の方が多い気がしている。というか、マジに恩を感じること自体が少ない。

(ふてぶてしいと言えばそうだが、「感謝の気持ちを持て」と人に言うのはおかしいと思っている。ルールだか正しさだかのために人の気持ちをコントロールするのは「侵害」だと思う)


では、現実を振り返ってみよう。

私が日常で最も「ありがとう」を使うのは、恐らく「レジ店員」に対してだろう。いつからか、会計後には必ず言うのが習慣になった。正直照れくさい(「ありがとう」という響きが苦手だ)ので伝え方は若干雑なのだが。「形だけのお礼っぽさ」、「形式的な挨拶っぽさ」を感じる。

「本当に形だけか」というと多分そうでもなく、「言わなければ落ち着かない」という、ソワソワした気持ちから「ありがとう」を使っている気がする。
「自分の気持ちに正直」というルールには従っているが、「感謝」とは違う気がする。恐らくは、またも「不安」である。

「不安」だから「ありがとう」を使うのであれば、まあ確かに、「不安」を感じにくい身近な人に対しては「ありがとう」が出にくいというのは納得である。基本的には安心感があるから共に過ごすことができる。(不安になることもあるが)


ただ、私の中にはもう一つひらめきがある。

多分私は、「ありがとう」とは別の形でお礼、つまりは「価値提供」したいと思っている。
「今の自分ではお返しができないぞ」と思った時に、一旦はその件を忘れるための合図として「ありがとう」を使うのだろう。


条件を挙げるならば、この2点のどちらかでも当てはまれば「ありがとう」タイムだ。

・価値を提供できる自信がない時(何も持っていない/渡せない)
・日頃から関わる自信がない時
(価値提供のチャンスを伺えない)

「レジ店員」は、確かにこれらの条件に当てはまる。何しろ、個人として覚えたり、関わったりする気があまりないから。個人として見てはいるが。

(私は特定の誰かと一対一で関係を「深める」タイプだが、エネルギーの使用先を絞りたいため、「広げる」ことはあまりしないのである)


というわけで、私と普段関わりのある人の中で、「あまり“ありがとう”って言わないなこいつ……」と思っている方は安心してほしい。私は別の形で返したいと思っている。……多分。

(ありがたくないと思っている可能性もありますが、そういう時はわりとストレートにワガママを言っているつもりです)


もしかすると、私にとって「ありがとう」というのは、言う勇気に対し、価値が非常に軽いものなのかもしれない。
先程「本当にありがたいと思った時に使いたい」と述べたが、「言葉で済ます」ということにはむしろ抵抗があるのかもしれない。こんなものでいいのかと。いくらなんでも安すぎるぞと。

だが、人の「ありがとう」は何だか大きい気がする。自分が受け取るようなものではない気がする。何だか矛盾を感じるが、今日はこれにて。

礼などいいから、進みたい方へさっさと行け。