掌の物語 ショッピング・モール(2)

秋の薔薇

夫にも何か思い当たることがあったのだろう。抵抗を見せたものの、とうとう心療内科を受診した。というより、由紀子に引きずられて行った。

認知症かもしれません。医者は淡々と言った。一度精神科を受診してください。

精神科に行った。医者は首をかしげた。一度内科に行ってください。ここではちょっと……。でも、ここに行くように言われて。うーん、そうですね。コロナであれこれありまして、今は検査も入院もちょっと。

医者は今大変な状況なのだ。

夫の年々激しくなる気性は認知症から来たものだったのか。最近は暴力が加わることもある。由紀子がいないとおとなしくなる。だから、時々、隣に逃げ込む。疲れ切った由紀子に代わって隣家の主婦があちこちにあれこれ聞いて手続きを取ってくれた。

施設から男二人が来て夫をあやすように言い聞かせ、施設に連れていった。

それから毎日電話がある。泣きながら暴れるので、申し訳ありませんが、手足を拘束します。同意書にサインをお願いしたいのですが。食事を拒否して泣いています。すぐ来てくださいませんか。同室の人と揉めまして、こまった事態になっています。ちょっと来てくださいませんか。

呼び出しが来ると電車とバスを乗り継いで施設に行く。夜はぐったりと寝込んでしまう。施設でのPCR検査では夫は陰性だった。多くの陽性者が出ているのに。身体は、幸い、頑強なのだ。良かった……。

でも、施設内でもめ事ばかり起こしていると追い出されるかも……

そんな毎日だが、由紀子はウォーキングを続ける。朝7時に家を出る。陽ざしのさわやかな朝, 20分ほど歩く。食料品部門はもう開いている。制服の警備員が店内のあちこちに銅像のように立ち、腰のやや曲がった女性が掃除用具のカートをすべるように引いてゆく。もう80歳近いのではないか。

レスト・コーナーではパソコンとにらめっこの男性。パンをかじりながら勉強している女子学生など、いつも違う顔ぶれ。

由紀子は水筒の麦茶をゆっくり飲む。いつものように車椅子の老人たちが来た。夫はこんな集団にも入れないのだ。胸が痛くなった。

昨日、夫から電話があった。100万円持って来てくれ。そんな大金、急には。頼む。持ってきてくれ。なぜ、そんなに急いで。夫は突然泣き出した。おふくろのところに行くんだ。おふくろが危ない。すぐ行ってやらないと。だから100万円必要なんだ。そんな会話のやり取りがあったような気がする。それともすべて夢だったのか。

由紀子はレスト・コーナーの椅子にかけたままうつらうつらしていた。このひと時が唯一の息抜きだ。目が覚めると、きらめく空間にはさっきより多くの人がせわしく行き来している。見飽きないこの情景。

椅子を立つ。ああ、息抜きになった……。歩き出すと、ジュース・コーナーのスタッフが走り寄って来た。お客様、傘、お忘れでじゃありません?と笑顔で日傘を差しだす。黒いエプロンとハットがよく似合う女性だ。

いつものようにお稲荷さんに立ち寄る。茂みの中のお稲荷さんに向かって両手を合わせる。

これから何が起こるか分からないけど、とにかく私の健康をお守りください……お稲荷さんは何も応えてはくれない。

たまには何か応えてくださいな……。

由紀子はうつむかない。胸を張って歩く。道野辺に秋の薔薇が揺れていた。


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