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ぼくたちがこの大陸に書き込む言葉は、大地の底を地下水脈となって、滔々と流れていくのだろうか

「note」という大陸に上陸して一か月になつた。この大陸から成熟した文化や芸術や思想は生れないという印象はすこしも変わっていない。だからぼくはこの大陸を不毛の大地とよんでいる。しかしこの不毛の大地を拠点にして、懸命に地平を切り拓こうとしている人たちにも出会った。その人たちの生きる姿勢にこの大陸の未来を感じる。

この大陸にすでに百二十本の苗木を植えこんだ。この苗木はすくすくと成長しているのだろうか。最初に植え込んだ苗木を、このサイトに再登場させたときは、十センチほどの苗木がぼくの背丈ほどになっていた。なんといまは三メートルほどになっている。そしてその幼い幹から枝が派生しているではないか。この木はぐんぐんと成長している。ということはこの不毛の大地は、豊穣なる大地ということなのか。

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「ハーツォグ」というアメリカの作家ソール・ベローが書いた長大な小説がある。この小説の主人公ハーツォグは、退職した大学教授で、その内部が荒廃しているというか、精神の崩壊の危機のなかにある。錯乱していく精神を必死に支えようと、ひたすら手紙を書きまくるのだ。その手紙を投函するわけではない。とにかくその手紙の相手というのが、ヘーゲルとかニーチェとかいった歴史上の人物であったり、大統領とか州知事とかいったマスコミに登場する未知の人物であったり、あるいは死んだ母親やかつての愛人たちであったりとかで、投函しようがないのだ。

 なぜ彼はそんな手紙を必死に書き続けるのか。「彼の苦悩の真摯さを認識してもらうために。返事を求めているわけではない。不毛の思想への憤りと抗議である。問うこと自体が、彼みずから解答を導き出す手段であり、追及する真理は返事にはなく、問いの過程そのものにある」(宇野利康訳 早川書房)。ぼくがこの開墾地に手紙を打ち込みはじめたのは、ハーツォグ的心境かもしれない。不毛なる社会への憤りと抗議という片鱗もある、自らの解答を導き出す手段という片鱗もある、あるいはまた不毛なる地に新しい地平を切り開こうと苦闘する手紙という片鱗もある。

 いざこの試みを始めてみると、次々に手紙を書かねばならぬ人物が登場してくる。開墾地の隣にさらに広大な森林づくりをはじめたものだから、書きたい相手は増えつづけるばかりだ。このあふれでる欲望を満たすには、毎月何本ものの手紙を書かねばならないが、力のないぼくには一月に一本というのがやっとというところ。

 それでも応答を求めない手紙を律儀に書きはじめたのは、新大陸に上陸したからである。この大陸に上陸しなかったら、このような試みなどちらりとも思わなかっただろう。手紙をいくら書いたって新しい地平などが開かれていくわけではない。広大な砂漠にコップ一杯の水を撒いたといった程度のことで、後に残るのはむなしさばかりだ。そんな不毛なる行為を続ける情熱など起こらなかっただろう。しかしぼくはいま新大陸に上陸した。

 この新大陸に上陸して森林づくりをはじめていくと、さまざまな新しいことに遭遇していくのだが、地下水脈という事物もその一つだった。精神の地下水脈として流れていくといった表現をぼくたちはしばしば使う。そういう現象があることを誰よりも強く確信しているのだが、それは観念として感じているのであって、それはいわば幻想を信じるということでもある。しかし果たしてはその幻想を信じていいのだろうか。ぼくがこの大陸に打ち込む言葉は、本当に地下水脈として大地の底を滔々と流れていくのだろうか。

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