見出し画像

雄大な物語を次なる村長となって歩いていく

飯舘村村会議員、佐藤健太さんへの手紙 

私たちのグループが、飯舘村から紹介された家屋を賃貸するか、あるいは一気に購入するかという決断の直前までいったが、さまざまなことを勘案するとき、まだ機が熟していないという声が湧き立ちひとまず撤退することにした。しかしそれは捲土重来の撤退であって、もっと我らの力とエネルギーをたくわえて再度立ち向かうという撤退だった。飯舘村の悲劇は限りなく深い。安っぽい付け焼刃程度の力やエネルギーで立ち向かえる悲劇ではないのだ。
 
飯舘村に帰還した村民はいまだに千人そこそこ、しかも高齢者ばかり。そんな村をあなたは村会議員となって背負っている。もっとも若い村会議員だ。あなたの自宅を飯舘村再生のプランを携えて訪れたが、その山間に広がるあなたの一族が興した工場に目を奪われた。そこに雄大な物語があった。その物語は確実に飯舘村復活への道につながっていく。あなたはおそらく、その雄大な物語をつぎなる飯舘村村長となって歩いていくのだろう。
 
飯舘村は農業と酪農によって支えられてきた村だった。飯舘村の復活とはこの農業と酪農を再び取り戻すことだった。しかし私たちがたずさえてきた再生のプランの骨子は芸術だった。原発爆発によって飯舘村に降り注いだ死の灰は、さらに数十年村を苦しめる。この苦しみが村を締めつけているかぎり、青年も子供たちも村に帰ってこない。どうすればいいのか。芸術だった。いまこそ芸術の力が問われていると思っているのだ。あなたはかつて演劇活動もしていた。そして柔軟な思考が、芸術で村を再生していくというプランに共鳴し共感してくたれた。そのとき話題になったのが、加川広重さんの絵画だった。
 
村外からさまざまなクリエーターたちが飯舘村にやってきて、それぞれの手法でその悲劇を描いたり、語ったり、映像にしたりしている。そんななか加川の創造は格段に深く、深刻であり、大きな挑戦だった。彼は縦五メートル六十センチ、横十六メートル四十センチの大画面に、飯舘村の悲劇を描いたのだ。飯舘村の再生は、この絵の挑戦を受けて立つことから始まるように思う、ここから私たちの戦いを始めることができる、それが携えてきたプランの骨子の一つだった。
 
加川はすでにこの巨大な絵画を十点以上描いている。彼の画業をみるにはそのすべての絵画を見たい。しかしそれらの絵を展示する場所がないのだ。数年前、ミーシャの十数点の大画面が六本木の国立美術館で展示されたが、そこならば可能だ。しかしほとんど無名の若い画家の作品など国立美術館は洟もひっかけない。日本には彼の作品を展示する場所がどこにもないのだ。いや、一か所だけある。飯舘村だ。飯舘村ならば、彼の全作品を展示できる。

飯舘村には三つの小学校──草野小学校、臼石小学校、飯樋小学校が立っていた。その小学校はいずれも閉鎖されたままだ。さらに農業高校も廃校にされる。これら閉鎖されている学校の体育館を展示会場にするのだ。巨大な大画面が四つの学校の体育館にずらりと展示される。もしその展覧会が挙行されたら、日本中が彼の絵を見にやって来るだろう。ここから村の再生と復活の戦いを始まる。青年たちが村に帰ってくる。子供たちもまた村に帰ってくる。

すはいて

画像2

画像3

画像4

画像5

画像6

画像7







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?