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悲しい『いけにえ』の物語

美智子皇后基調講演   2
子供の本を通しての平和──子供時代の読書の思い出

 
 
 私が小学校に入る頃に戦争が始まりました。昭和十六年(一九四一年)のことです。四学年に進級する頃には戦況が悪くなり、生徒達はそれぞれに縁故を求め、又は学校集団として、田舎に疎開していきました。私の家では父と兄が東京に残り、私は妹と弟と共に、母につれられて海辺に、山に、住居を移し、三度目の疎開先で終戦を迎えました。
 
 度重なる移居と転校は子供には負担であり、異なる風土、習慣、方言の中での生活には、戸惑いを覚えることも少なくありませんでしたが、田舎での生活は、時に病気がちだった私をすっかり健康にし、私は蚕を飼ったり、草刈りをしたり、時にはゲンノショーコとカラマツ草を、それぞれ干して四キロずつ供出するという、宿題のノルマにも挑戦しました。八キロの干草は手では持ちきれず、母が背中に負わせてくれ、学校まで運びました。牛乳が手に入らなくなり、母は幼い弟のために山羊を飼い、その世話と乳しぼりを私にまかせてくれました。
 
 教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に、たまに父が東京から持ってきてくれる本は、どんなに嬉しかったか。冊数が少ないので、惜しみ惜しみ読みました。そのような中の一冊に、今、題を覚えていないのですが、子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。日本の歴史の曙のようなこの時代を物語る神話や伝説は、どちらも八世紀に記された二冊の本、古事記と日本書紀に記されていますから、恐らくはそうした本から、子供向けに再話されたものだったのでしょう。
 
 父がどのような気持ちからその本を選んだのか、寡黙な父から、その時も、その後もきいたことはありません。しかしこれは、今考えると、本当によい贈り物であったと思います。なぜなら、それから間もなく戦争が終わり、米軍の占領下に置かれた日本では、教育の方針が大巾に変わり、その後は歴史教育の中から、神話や伝説は全く削除されてしまったからです。
 
 私は、自分が子供であったためか、民族の子供時代のようなこの太古の物語を、大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます。
 
 父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。本というものは、時に子供に安定の根を与え、時にどこにでも飛んでいける翼を与えてくれるもののようです。もっとも、この時の根っこは、かすかに自分の帰属を知ったという程のもので、それ以後、これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の、ほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。
 
又、これはずっと後になって認識したことなのですが、この本は、日本の物語の原型ともいうべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に、児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは、その後私が異国を知ろうとする時に、何よりもまず、その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり、フィンランドは第一にカレワラの国であり、アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国、インドはラマヤナやジャータカの国、メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが、他国に親しみをもつ上で、これは大層楽しい入口ではないかと思っています。
 
 二、三十年程前から、「国際化」「地球化」という言葉をよくきくようになりました。しかしこうしたことは、ごく初歩的な形で、もう何十年――もしかしたら百年以上も前から――子供の世界では本を通じ、ゆるやかに始まっていたといえないでしょうか。一九九六年の「子供の本の日」のためにIBBYが作ったポスターには、世界の家々を象徴する沢山の屋根を見おろす上空に、ぷっかりと浮かんで、楽しげに本をよんでいる一人の少年が描かれていました。遠く離れた世界のあちこちの国で、子供達はもう何年も何年も前から、同じ物語を共有し,同じ物語の主人公に親しんで来たのです。
 
 父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。年代の確定出来ない、六世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は、父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかもその皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
 
さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
 
 このしばらく前、建(たける)と弟橘(おとたちばな)とは、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀(はかりごと)に会って草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、「あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ」という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持を歌ったものです。
 
 悲しい「いけにえ」の物語は、それまでも幾つかは知っていました。しかし、この物語の犠牲は、少し違っていました。弟橘の言動には、何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、弟橘の歌は――私は今、それが子供向けに現代語に直されていたのか、原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですが――あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」という酷(むご)い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。
 
 この物語は、その美しさの故に私を深くひきつけましたが、同時に、説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供(ひとみごくう)というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖(いふ)であったように思います。
 
 まだ、子供であったため、その頃は、全てをぼんやりと感じただけなのですが、こうしたよく分からない息苦しさが、物語の中の水に沈むというイメージと共に押し寄せて来て、しばらくの間、私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています。

 皇后美智子さまの二十年来の友人である末盛千恵子さん(すえもりブックス代表)によって記された一文がある。
『一九九三年、心ない匿名の人の詐話、うそ偽りを元に雑誌や週刊誌が皇后バッシング(大手週刊誌は後に謝罪文掲載)が行われ、秋には皇后さまが失語症、声を失われた。

 そんな美智子さまに末盛さんが「思い切ってカウンセラーや精神科医の助けを借りることはお出来にならないのですか」 と尋ねたところ‥‥‥そういうことを受けるためには、こちらの心の中の全てを明らかにしなければならないから、自分の立場ではできない‥‥‥そう答えられて、「でんでん虫のかなしみ」の話をされた。

5年後のインドでの美智子皇后ビデオ講演で引用された新美南吉原作の童話詩です。だれにも心の中を明かせない。そんな皇后が心を寄せられた詩。背負った殻に悲しみがいっぱい詰まっていることに気づいた カタツムリ(でんでん虫の)の話。

皇后美智子さまは「でんでん虫は、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない」と講演録で述べておられます。でんでん虫に託して、皇后は、悲しみをこらえられた。自分の悲しみを”客体化”してこらえるのです。客体化とは、自分を離れて自分を視る、悲しみの中にある自分を、まるで人ごとのように視る自分を意識することです。美智子さまは、新美南吉という作家の「でんでん虫のかなしみ」という詩を自分で読まれた。自分で何かの行為を実行することで、その瞬間、自分の悲しみという自己中の基軸が自己中から離れます。その詩に感動することでさらに悲しみを客観的に眺めてしまえるのです。

皇后美智子さまの強さとすごさです。もしあなたが、たえきれない悲しみに、押しつぶされそうになったときは、自分の悲しみ以外のことに努めて目をむけてください。皇后は「でんでん虫のかなしみ」に目をむけられました。あなたなら、どうやって悲しみを乗り越えますか?」
 
 

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