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かもめ 第四幕 アントン・チェーホフ


 「かもめ」は、最初ペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場で演され、無惨な失敗に終わった戯曲であるが、のちにモスクワ芸術座の上演が大成功をおさめ、劇作家チェーホフの名前を不朽のものにした。

「かもめ」では、女優志望の娘ニーナと、作家志望の青年トレーブレフの運命が物語の中心になっている。名声を夢みて、有名な作家トリゴーリンのもとに走ったニーナはやがてトリゴーリンに捨てられ、彼の間にてきた子どもにも死なれ、精抻的にも肉体的にも傷つく、しかし二年後、すでに新進作家になったトレーブレフを訪れた陂女は、もはや自己の生きてゆく道をはっきりと自覚した女性であり、プロの女優としての意識に徹している。そして、「あなたは作家、あたしは女優」と決意を表明する彼女に対して、トレーブレフは二年前とまったく同じ台詞をつぶやくだけにすぎない。自分のものを持たぬ彼にとっては、これからの長い人生が無意味なものにしか感じられず、泥まみれなっても生き抜こうとするニーナとは対照的に、自殺の道を選ぶほかなくなるのである。

 

第四幕

リーリン家の客間の一つ。トレーブレリが書斎にしている。左右にそれぞれ奥の部屋に通じる戸口、正面に、テラスに出るガラス戸、普通の客間の応接セットのほか右手隅にデスク。左手戸口のわきにトルコふうのソファ、本棚、出窓や椅子に積みあげられた本。晩、笠のついたランプが一つともっている。薄闇、木々の騒めきや煙突に鳴る風のうなりがきこえる。夜まわりの拍子木の音、メドヴェージェンコとマーシャ登場。

マーシャ  〔呼ぶ〕コンスタンチン・ガヴリールイチ! コンスタンチン・ガヴリールイチ! 〔あたりを見まわして〕だれもいやしない、旦那さまときたら、のべつ、コースチャはどこだ、コースチャはどこへ行ったって、そればっかり……若旦那さまなしじゃ生きてゆけないみたいに……
メドヴェージェンコ  ー人ぼっちになるのがこわいんだよ。〔耳を傾けながら〕なんて凄い天気だ! これでもう二昼夜だからね。
マーシャ  〔ランプの火を大きくする〕湖が波立ってるわ。大きな波。
メドヴェージェンコ  庭は真っ暗だしね。庭のあの舞台をとりこわすように言っとかなけりゃな。骸骨みたいに殺風景な、見苦しい眺めだし、幕は風でばたばた鳴るしさ。ゆうべあの横を通ったけど、まるで中でだれか泣いてるみたいな気がしたよ。
マーシャ  また、そんな……〔間〕
メドヴェージェンコ  家へ帰ろうよ、マーシャ。
マーシャ  〔首を横にふる〕あたし、ここに泊まってくわ。
メドヴェージェンコ  〔哀願するように〕帰ろうったら、マーシャ! 赤ちゃんだって、きっと、お腹をすかしてるよ。
マーシャ どうってことないわよ。マトリョーナが見てくれるわ。〔間〕
メドヴェージェンコ  可哀そうに。これでもう三晩も母親がいないんだから。
マーシャ  あんたも情ない人になったわね。昔なら時には哲学の一つもぶったもんだけれど、この頃じゃ口を開けば、赤ちゃんだの、家へ帰ろうよだのと、そればかり。それ以外の台詞はきけないんだから。
メドヴェージェンコ  帰ろうよ、マーシャ!
マーシャ  一人で帰って。
メドヴェージェンコ  君のお父さん、僕に馬を貸してくれやしないさ。
マーシャ  くれるわよ。頼めば貸してくれるわ。
メドヴェージェンコ  そりゃ頼んではみるけど。じゃ、君は明日帰るんだね?
マーシャ  〔嗅ぎ煙草をかぐ〕そう、明日、しつこいわね……
〔トレープレフとポリーナ登場、トレープレフ、枕と毛布をかかえ、ポリーナはシーツ類を運んでくる。トルコふうソファにそれをおいたあと、トレープレフはデスクのところに行って坐る〕
マーシャ   どうしてそこに、ママー!
ポリーナ  ピョートル・ニコラーエウィチが、コースチャの部屋に寝たいっておっしゃるんだよ。
マーシャ  あたしがするわ……〔寝床を作る〕
ポリーナ  〔溜息をついて〕年をとると、子供と同じだね‥‥〔デスクのところに行き、肘をついて原稿を眺める。間〕
メドヴェージェンコ  それじゃ、僕、帰るね、おやすみ、マーシャ。〔妻の手にキスする〕おやすみなさい、お母さん。〔姑の手にキスしようとする〕
ポリーナ  〔腹立たしげに〕さあ! 早くお帰りよ!
メドヴェージェンコ  おやすみなさい、コンスタンチン・ガヴリールイチ。
〔トレープレフ、無言で片手をさしのべる。メドヴェージェンコ、退場〕
ポリーナ  〔原稿を眺めながら〕あなたが本物の作家になるなんて、だれひとり夢にも思っていませんでしたよ、コースチャ。それが今では、ありがたいことに、方々の雑誌からお金まで送ってくるんだから。〔彼の髪を片手で撫でる〕それに、男前になって……ねえ、コースチャ、おねがいだから、うちのマーシャにもう少しやさしくしてくださいな!
マーシャ  〔寝床を作りながら〕そっとしておいてあげなさいよ、ママ。
ポリーナ  〔トレープレフに〕あれで、なかなかよくできた子なんですよ。〔間〕女なんてね、コースチヤ、やさしくみつめてさえもらえれば、ほかに何も要らないものなんですから、わが身にてらしてわかりますけれど。
 〔トレープレフ、デスクの前を離れ、無言のまま退場〕
マーシャ  ほら、怒らせてしまった。ほんとにしつこいんだから。
ポリーナ  あんたが可哀そうでさ、マーシェニカ。
マーシャ  大きなお世話よ!
ポリーナ  あんたのことで、母さん、ずっと胸を痛めつづけてきたのよ。母さんには何もかもちゃんとわかっているんだもの、
マーシャ  みんな、ばかげたことよ。はかない片思いなんて、そんなの小説にでてくるだけ。下らないわ。自分を甘やかして、いつも何かを期待したり、あてもなく待ったりさえしなければいいんだわ……恋が胸に芽生えたら、摘みとってしまえばいいのよ。うちの人をほかの郡に転勤させてくれるって話があるでしょ。そっちへ移れば、あたし、何もかも忘れるわ……この胸から根こそぎ引きぬいてしまうわ。
〔二部屋おいた向うで、メランコリックなワルツを弾いている〕
ニーナ  コースチャが弾いてるわ。やっぱり気が滅入るのね。
マーシャ  〔ワルツのターンを二、二回静かにやる〕大事なのはね、ママ、目の前に見ずにすむってことなのよ。セミョーンが転勤にさえなってくれれば、あたしひと月で忘れてみせるわ、ほんとよ。つまらないことだもの、みんな。
〔左手のドアが開き、ドールンとメドヴェージェンコがソーリンの車椅子を押してくる〕
メドヴェージエンコ  わが家は今や六人家族ですよ。ところが小麦粉は一プード(十六キロ余)七十カペイカもするんですからね。
ドールン  だもの、きりきり舞いしなけりゃならんわけだ。
メドヴェージェンコ  あなたは笑っていられるからいいですよ。腐るほどお金があるんですから。
ドールン  お金が? 三十年間の医者稼業でだよ、君、昼も夜も自分の身体が自分のものではないような、あわただしい医者稼業を通じて、貯めることのできた金が、たったの二千ルーブルだからね。それもこの間の外国旅行ですっかりはたいてしまった。わたしには何もありゃせんよ。
マーシャ  〔夫に〕帰らなかったの?
メドヴェージェンコ  〔済まなそうに〕しょうがないじゃないか? 馬を貸してもらえないんだもの!
マーシャ  〔苦い腹立ちをこめて、小声で〕あんたの姿を見ないでいられたらね!
〔車椅子、部屋の左側の部分でとまる。ポリーナ、マーシャ、ドールン、そのまわりに坐る、メドヴェージェンコ、しおれわきへ引きさがる〕
ドールン  それにしても、こちらはすっかり変わりましたね! 客間が書斎になっちまって。
マーシャ  ここの方がコンスタンチン・ガヴリールイチはお仕事がしやすいんです。好きな時に庭へ出て、考えごとをなされますでしよ。
 〔夜まわりの拍子木〕
ソーリン  妹はどこにいるんだね?
ドールン  トリゴーリンを迎えに駅へ行かれましたよ。もうすぐ戻られるでしょう。
ソーリン  妹をここへ呼びつける必要をあなたが見いだしたとなると、つまり、わたしの病気も危ないってことですな。〔ちょっと黙って〕おかしな話だ、病気が危ないってのに、何の薬ももらえないなんて。
ドールン  じゃ、何が欲しいんです? 鎮静剤ですか? ソーダ? それともキニーネでも?
ソーリン  ふん、また哲学か。ああ、何の因果だろう! 〔ソファを顎でさし示して〕それはわたしのために敷いてくれたの?
ポリーナ  ええ、ピョートル・ニコラーエウィチ。
ソーリン  済まないね。
ドールン  〔口ずさむ〕「月は夜ふけの空に漂い……」
ソーリン  コースチャに小説の主題をやろうと思っているんだよ。題名はこうなるはずだ。「なりたかった男」「口-ム・キ・アーヴーリュ」かつて若かりし頃、わたしは文学者になろうと思ってたんだがね。なれなかった。弁舌さわやかになりたかったけれど、わたしの話たるや、ひどいものだったからね。〔自分の口真似をする〕「でありまするからして、その、ええ……」てな具合で、しめくくりをつけよう、つけようとして、よく冷汗をかいたことさえあったよ。結婚もしたかったけれど、しなかったし。いつも都会で暮らしていたかったのに、こうして田舎で一生を終えようとしている始末さ、それだけだよ。
ドールン  でも、四等官になりたいと思って、なったじゃありませんか。
ソーリン  〔笑う〕そんなもの、志しなんてもんはなかったよ、ひとりでにそうなったまでさ。
ドールン  六十二にもなって人生に不満を言うなんて、気持が大らかじゃありませんね、そうでしょうが。
ソーリン  君も頑固な男だね、わかるだろうに、わたしは実のある生き方をしたいんだよ。
ドールン  そんな軽薄な。自然の法則からいっても、いっさいの生命には、当然、終りがあることになっているんです。
ソーリン  それは充ちたりた人間のこねる理屈さ。あなたは充ちたりているから、人生に無関心なんだ。あなたにとっちゃ、どうでもいいんだから、しかし、死ぬのはあなただってこわいでしょうよ。
ドールン  死の恐怖というのは、動物的な恐怖でしてね……克服しなけりゃいけないんです、意識的に死を恐れるのは、永遼の生命を信ずる人間だけです。そういう人は自分の罪深さがこわくなりますからね。ところがあなたは、第一、信仰を持っていないし、第二に、あなたにどんな罪深いことがあるというんです? 法務省に二十五年間勤めあげた、それだけじゃありませんか。
ソーリン  〔笑う〕二十八年だよ……
〔トレープレフ登場。ソーリンの足もとの小さな腰掛けに坐る。マーシャ、終始彼から目をはなさない〕
ドールン  わたしらはコンスタンチン・ガヴリールイチのお仕事の邪魔をしてるようですね。
トレープレフ  いえ、かまいませんよ。 〔間〕
メドヴェージェンコ  あのう、先生、外国ではどこの町がいちばんお気に入りました。
ドールン  ジェノアですね。
トレープレフ  なぜ、ジェノアが?
ドールン  あそこは、街の雑踏が素敵でしてね、夕方ホテルから出ると、通りいっぱいに人があふれているんです。それからその人波に入って、なんの目的もなしに、横町に曲がったりまた本通りに戻ったりしながら、あちこち歩いたり、生活をともにしたり、心理的に一つに融け合ってみると、全世界の一つの魂があり得るんだってことが信じられるようになってきますよ。ほら、いつぞやあなたの芝居でニーナ・ザレーチナヤが演じたような、一つの魂がね。それはそうと、ザレーチナヤさんは今どこにいるんです? どこに、どうしているんですかね?
トレープレフ  たぶん、元気なはずです。
ドールン  わたしもきいた話だと、なんでもあの人はなんか一種特別の生活をしたとかいうことでしたがね。どういうことなんです?
トレープレフ  それは、話せば長い物語ですよ、先生。
ドールン  そこをかいつまんでさ。〔間〕
トレープレフ  彼女、家出をしてトリゴーリンといっしょになったんです。これはご存じでしょう?
ドールン  知ってます。
トレープレフ  子供ができましてね、その子は死にました。あとはお定まりの筋書きで、トリゴーリンが彼女に飽きて、元の相手とよりを戻したってわけです。もっとも、あの男は元の相手を棄てようとしたことなぞ一度もないんで。意志が弱いためにそうなるだけだから、どっちもなんとかうまくまるめこみましたけどね。僕にわかっていることから判断できるかぎりでは、ニーナの私生活はまるきり失敗でしたよ。
ドールン  で、舞台の方は?
トレープレフ  どうやら、いっそうさんざんのようです。デビューはモスクワ郊外の別荘地にある劇場だったんですが、そのあとドサまわりでね。そのころ僕は彼女から目を離さぬようにして、しばらくの間は彼女の行く先々へついてまわっていたものです。彼女はいつも大きな役にとびつくんだけれど、演技は雑で味がないし、やたらに吠えたてるばかりで、しぐさもぎくしゃくしてましてね。時には才能豊かな泣き方をしたり、みごとな死に方を演じたりする瞬間もあるんですけど、それもその瞬間だけのことでね。
ドールン  ということは、やはり才能があるわけだね?
トレープレフ  そのへんの判断は困難でしたね。きっと、あるんでしょう。僕の方は彼女の姿を見ているんですけど、彼女は僕に会いたがらないで、ホテルの部屋へも女中が通してくれないんです。僕も彼女の心境がわかってましたから、しいて会おうとしませんでしたがね。〔間〕ほかに何をお話ししたらいいかな? そのあと、僕がもう家に帰ってきてから、彼女から手紙をもらうようになったんです。賢い、暖かい、おもしろい手紙ですよ。彼女は泣きごとを言いはしませんでしたけど、とても不幸なことは感じとれましたね。とにかくどの一行をみても、病的に神経が張りつめているんです、それに、想像力もいくぶん乱れていたし。かもめという署名なんですから。プーシキンの「ルサールカ」にでてくる水車小屋の親父は、俺はからすだと言うけど、あれと同じで彼女もどの手紙でもいつも、あたしはかもめだと繰り返してました。彼女、今ここに来てるんですよ。
ドールン  つまり、どういうこと、ここに来てるってのは?
トレープレフ  この町の旅館にいるんです。もう五日くらい、そこに泊まってるんです。僕は行ってみようとしたんですがね、このマリヤ・イリイーニチナが訪ねて行ったら、だれにも会わないそうなんです。セミョーン・セミョーノウィチは、昨日の午後、ここから二キロほどの野原で彼女に会ったと言うんですがね。
メドヴェージェンコ  ええ、お目にかかりました、町の方へ歩いて行かれるところでしたっけ。僕がおじぎして、どうして遊びにいらっしゃらないのか、おたずねしたら、いずれ伺うっておっしゃってましたがね。
トレープレフ  彼女のことなんぞ無視してるんです。屋敷の近くにさえ立ち寄らせないように、いたるところに見張りを立ててるほどですよ。〔医師といっしょにデスクの方に去る〕ねえ、先生、紙の上で哲学者になるのはいとたやすいけれど、実際には実にむずかしいですね!
ソーリン  素敵な娘さんだったがね。
ドールン  なんですって?
ソーリン  素敵な娘さんだった、と言うのさ。四等官のこのソーリンさんまで、一時はあの子に熟をあげとったからね。
ドールン  このドンファン老人が。
〔シャムラーエフの笑い声がきこえる〕
ポリーナ  どうやら、みなさん、駅からお着きになられたようですわ……
トレーブレフ  そう、母さんの声がする。
 〔アルカージナ、トリゴーリン登場。つづいてシャムラーエフ〕
シャムラーエフ  〔部屋に入りながら〕わたしらはみんな、自然現象というやつのおかげで、老いこんで色あせてゆくばかりだというのに、奥さまは相変わらずお若いですな……派手なジャケットに、溌剌としたご様子で……実に優雅でらっしゃる……
アルカージナ  またそんなお世辞でわたしに何かの祟りでもよぶつもり? 退屈な人ね!
トリゴーリン  〔ソーリンに〕こんにちは、ピョートル・ニコラーエウィチ! なんだっていつもご病気ばかりしておられるんです? いけませんな!〔マーシャを見て、嬉しそうに〕マリヤ・イリイーニチナ!
マーシャ  おわかりになって? 〔握手する〕
トリゴーリン  結婚なさってるんですか?
マーシャ  とっくに。
トリゴーリン  お幸せ? 〔ドールンやメドヴェージェンコと会釈をかわしたあと、ためらいがちにトレープレフに歩みよる〕イリーナ・ニコラーエヴナのお話だと、あなたはもう昔のことは忘れて、怒っておられぬそうですが。
 〔トレープレフ。彼に片手をさしのべる〕
アルカージナ  〔息子に〕ポリス・アレクセーエウィチは、お前の新しい短篇ののっている雑誌を持ってきてくださったのよ。
トレープレフ  〔雑誌を受けとりながら、トリゴーリンに〕恐縮です。どうもご親切に。〔二人、腰をおろす〕
トリゴーリン  あなたの崇拝者たちからよろしくとのことでしたよ……ペテンブルクでもモスクワでも、概してあなたに関心をよせていて、僕なぞもしょっちゅうあなたのことをたずねられるんです。どういう人かだの、年はいくつかだの、ブリュネットかブロンドかだのってね。みんななぜか、あなたがもう若い人じゃないと思っているんです。それに、あなたはペンネームで作品を発表なさるので、だれもあなたの本名を知りませんしね。あなたは鉄仮面のように、神秘的なんですよ。
トレープレフ  こちらへはずっと?
トリゴーリン  いえ、明日にもモスクワへ行こうと思っています。用がありましてね。中篇の仕上げを急いでいますし、その上、作品集にも何かやる約束をしちまったもんですからね。一口に言って、毎度おなじみの話ですよ。
〔二人が話している間、アルカージナとポリーナ、部屋の中央にカード・テ-ブルを置き、両翼を上げる。シャムラーエフ、蝋燭に火をつけ、椅子を配置する。戸棚からロトの盤がとりだされる〕
トリゴーリン  このお天気の出迎えは、無愛想ですな。ひどい風だ、明日の朝、風がおさまったら、湖へ釣に行きます。ついでに庭と、例のほら、あなたのお芝居をやった場所をひとわたり見ておく必要もありますし。モチーフは熟したんですが、ただ作品の舞台を記憶によみがえらせる必要があるんです。
マーシャ  〔父に〕パパ、うちの人に馬を貸してあげて! 家へ帰らなけりゃならないのよ。
シャムラーエフ  〔口真似をする〕馬を貸して……家へ帰らなけりや、か……〔厳しく〕その目で見ただろうが。たった今、駅へ行ってきたばかりなんだ。またぞろ走らせるわけにゃいかんよ。
マーシャ  だって、ほかの馬もあるじゃないの……〔父が黙しているのを見て、片手をふる〕親子喧嘩はもう……
メドヴェージヱンコ  マーシャ、僕歩いて帰るよ。ほんとにさ……
ポリーナ  〔溜息をついて〕こんなお天気に、歩いて……
〔カード・テーブルにつく〕さ、どうぞ、みなさん。
メドヴェージェンコ  だって、たかだか六キロですからね……さようなら……〔妻の手にキスする〕失礼します、お母さん。〔姑はしぶしぶキスを受けるために片手をだす〕だれにも迷惑はかけたくないんですけど、ただ赤ん坊が……〔みなにおじぎをする〕おやすみなさい……〔退場。すまなそうな足どり〕
シャムラーエフ  たぶん帰りつくさ。将軍じゃあるまいし。
ポリーナ  〔テーブルを叩いて〕どうぞ、みなさん。時間をむだにするのはやめましょう、でないと、もうじきお夜食の案内がきますわ。
 〔シャムラーエフ。マーシャ、ドールン、テーブルにつく〕
アルカージナ  〔トリゴーリンに〕長い秋の夜がくると、ここでロトを遊ぶんですの。ほら、ごらんになって。古めかしい口卜でしょう。わたしたちが子供だった頃、亡くなった母がこれで遊んでくれたものでしたわ。お夜食までいっしょに一勝負なさらない? 〔トリゴーリンとテーブルにつく〕退屈なゲームですけど、慣れれば、まんざらでもないんですよ。〔みなに三枚ずつカードを配る〕
トレープレフ  〔雑誌のページを繰って〕自分の作品には目を通していながら、僕のページも切ってやしない。〔雑誌をデスクの上においたあと、左手戸口に向かう。母のわきを通りしなに、その頭にキスする〕
アルカージナ  お前もどう、コースチャ?
トレープレフ  わるいけど、なんだか気が向かないんだ……散歩してくるよ。〔退場〕
アルカージナ  賭け金は十カペイカよ。先生、わたしの分、賭けといてくださいね。
ドールン  承知しました。
マーシャ  みなさん、賭けましたか? はじめますよ……二十二!
アルカージナ  はい。
マーシャ  三!
ドールン ほいな。
マーシャ  三は置いたんですね? 八! 八十一! 十!
シャ厶ラーエフ  急ぐなよ。
アルカージナ  ハリコフではたいへんな歓迎をされたわ、ほんと。今でも頭がくらくらするほどよ!
マーシャ  三十四!
 〔舞台裏でメランコリックなワルツを弾く〕
アルカージナ  学生さんたちが拍手喝采の嵐でね……花籠が三つに、花束が二つ、それに、ほら……〔胸のブローチをはずして、テーブルに投げだす〕
シャムラーエフ  そう、これはちょっとした代物だ……
マーシャ  五十‥‥‥
ドールン  きっかり五十ですね?
アルカージナ  舞台衣裳がすばらしかったし……ほかのことはともかく、衣裳に関してはわたしもこれでうるさい方ですもの。
ポリーナ  コースチャが弾いているのね。気が滅入るんだわ、可哀そう
に。
シャムラーエフ  新聞でひどく叩かれているからね。
マーシャ  七十七!
アルカージナ  どうして気にしたりするのかしらね。
トリゴーリン  あの人は運がわるいんですよ。どうしても自分の本当の調子に入りこむことができないんです。何か妙な、はっきりしない、時によるとうわごとにさえ似たようなところがあってね。生きた人物が一人もいないし。
マーシャ  十一!
アルカージナ  〔ソーリンをかえり見て〕退屈、兄さん? 〔間〕眠ってるわ。
ドールン  四等官はお寝みか。
マーシャ  七! 九十!
トリゴーリン  僕が湖のほとりのこんな屋敷に暮らしていたら、ものを書いたりする気になるかな? 自分の中のそんな情熱は抑えつけて、もっぱら釣ばかりしてるでしょうね。
マーシャ  二十八!
トリゴーリン  河スズキやセイゴを釣りあげるのは、実に幸せな気分ですからね!
ドールン  わしは、でも、コンスタンチン・ガヴリールイチを信じているな。何かがありますよ! 何かがあるんだ! あの人はイメージで考えるし、あの人の短篇は色彩的で、強烈です。だからわたしは、あの人の作品だってことを強く感ずるんですよ。ただ残念なことに、あの人ははっきりきまった課題を持っていない。一つの印象を与えはするけれど、それ以上何もないんだな。印象だけじゃ、たいしたものは得られませんからね。イリーナ・ニコラーエヴナ、あなたは息子さんが作家で嬉しいですか?
アルカージナ  それが、あなた、まだ読んだことがないのよ。年中ひまなしで。
マーシャ  二十六!
 〔トレープレフ、静かに入ってきて、自分のデスクに行く〕
シャムラーエフ  〔トリゴーリンに〕ところで、ボリス・アレクセーエウィチ、あなたの品物がうちに残ってましたよ。
トリゴーリン  何です?
シャムラーエフ  いつぞや、コンスタンチン・ガヴリールイチがかもめを射ち殺したのを、剥製にしてくれとあなたに頼まれたでしょうに。
トリゴーリン  おぼえていないな。〔考える〕おぼえてませんね!
マーシャ  六十六! 一!
トレープレフ  〔窓を開けて、耳をすます〕なんて暗いんだろう! どうしてこんなに胸騒ぎがするのか、わからないな。
アルカージナ  コースチャ、窓を閉めて、吹きこむわ。
 〔トレープレフ。窓を閉める〕
マーシャ  ハ十八!
リゴーリン  揃いましたよ。みなさん、
ア儿カージナ  〔はしゃいで〕やった! やった!
シャムラーエフ  おみごと!
アルカージナ  この人はどこへ行っても、いつもツイてるのよ、〔立ち上がる〕さ、それじゃ何かお腹ごしらえをしに行きましょう。われらの有名作家は、今日はお夕食をなさらなかったのよ。お夜食のあと、つづきをしましょう、〔息子に〕コースチャ、原稿はやめにして、お夜食に行きましょう。
トレーブレフ  いらないんだ、母さん、お腹がいっぱいだから。
アルカージナ それならいいけど。〔ソーリンを起こす〕お夜食よ、兄さん! 〔シャムラーエフと腕を組む〕ハリコフでどれほど受けたか、話してあげるわ……
〔ポリーナ、力-ド・テーブルの蝋燭を消し、そのあと彼女とドールンで車椅子を押す。一同、左手の戸口から退場。舞台にはデスクに向かうトレープレフー人になる〕
トレープレフ  〔書こうとして、すでに書き上げた部分に目を走らせる〕俺はあんなにあれこれと新しい形式を説いてきたくせに、この頃じゃ、俺自身が古い因襲にしだいにはまりこんでゆくのが感じられるんだ。〔読む〕「塀のボスが告げていた……黒い髪に縁取られた蒼白な顔」……告げていただの、縁取られただのと……へたくそだ。〔消す〕兩の音で主人公が目をさますところから始めて、あとはみんな取ろう。月夜の描写も長たらしくて、気取りすぎてるな。トリゴーリンなら、自分の手法を作りだしてるから。たやすいもんだ……あの男なら。土手の上に割れた瓶の首が光っていて、水車の影が黒く落ちていれば、それでもう月夜は出来上がりだからな。ところが俺ときたら、ふるえおののく光だの、星の静かなまたたきだの、香り高い静かな大気の中に消えてゆく遠いピアノの音色だのと……やりきれないな。〔間〕そう、俺がますます近づきつつある信念だけれど、問題は形式の古い新しいなんてことじゃなくて、形式のことなんぞ考えずに一人の人間が書くってことなんだ、魂の奥から自由にほとばしりでるから書くってことなんだな、〔だれかデスクにいちばん近い窓をノックする〕何だろう? 〔窓をのぞく〕何も見えないな……〔ガラス戸を開けて、庭を見る〕だれか階段を駆けおりてったぞ。〔声をかける]だれ、そこにいるのは? 〔出てゆく。彼が足早にテラスを歩いてゆくのがきこえる。三十杪ほどして、ニーナを連れて戻ってくる〕ニーナ! ニーナ!
 〔ニーナ、彼の胸に頭をおき、押し殺したむせび泣き〕
トレープレフ  〔感動して〕ニーナ! ニーナ! あなただったの……あなただったのか……僕はまるで予感してたみたいに、一日じゅう胸がひどく痛んでならなかったんだ。〔彼女の帽子とマントをとってやる〕ああ、僕の大事な可愛い人が来てくれたんだね! 泣くのはよそうよ、泣くのは。
ニーナ  だれかいるわ。
トレープレフ  だれもいないよ。
ニーナ  ドアに鍵をかけてちょうだい。でないと入ってくるから。
トレープレフ  だれも入ってきやしないって。
ニーナ  あたし知ってるの。お母さまがいらしてるでしょ。ドアに鍵をかけて……
トレープレフ  〔右手のドアに鍵をかけ、左手の戸口に行く〕こっちは錠がないんだ。椅子でふさいじまおう。〔戸口に肘掛椅子をおく〕心配ないですよ、だれも入ってこないから。
ニーナ  〔食い入るように彼の顔をみつめる〕あなたをよく見させて。〔周囲を見まわしながら〕暖かくて、気持がいいわ……あの頃ここは客間だったわね。あたし、すっかり変わった?
トレープレフ  うん……少し痩せて、目が大きくなった。ニーナ、こうしてあなたに会っているのが、なにか妙な気がするよ。どうして僕を寄せつけなかったんです? なぜ今日まで来てくれなかったの? 僕は知ってるんだ、あなたがこの町に来てもう一週間近くになるのに……僕は毎日、何回もあなたの旅館に通って、乞食みたいにあなたの窓の下に立っていたんですよ。
ニーナ  あたしを憎んでらっしゃるだろうと、それが心配だったの。今でも毎晩、あなたがあたしを見ていながら、あたしだと気づかない夢を見るのよ。あたしの気持をわかっていただけたら、と思うわ。この町に着いたその日から、いつもこのへんを歩いていたの……湖のまわりを。お宅の近くまで何遍も来たのに、門を入る決心がつかなくって。坐りましょう。〔二人、腰をおろす〕坐って、つもる話をしましょう。ここはいいわ、暖かくて、気持がよくて……きこえる、風ね? ツルゲーネフに、こういう文章があるでしょ。「こんな夜、家の屋根の下にいられる人は、暖かいわが家のある人は、幸せだ」あたしはかもめなの………ううん、違う。〔額を拭う〕何の話でしたっけ? そう……ツルゲーネフね……「それに主もすべての寄辺なき放浪者を助けたもうだろう」……なんでもないのよ。〔むせび泣く〕
トレープレフ  ニーナ、また泣く……ニーナ!
ニーナ  大丈夫、これで楽になるの……もう二年も泣いていなかったわ。ゆうべ遅く、あたしたちの劇場がそのままになっているかどうか、お庭へ見に来たのよ。今でも建っているのね。あたし、二年ぶりにはじめて泣いてしまって、気持がすっきりと明るくなったわ、ほら、もう泣いていないでしょ。〔彼の手をとる〕こうして、あなたはもう作家になったのね……あなたは作家で、あたしは女優……お互い、後戻りのきかない道にふみこんだものね……以前のあたしは楽しく、子供っぽい暮しをしていたんだわ、朝、目をさますと、歌をうたいだすような。あなたに恋したり、名声を夢見たりして。それが今は? 明日、朝早くエレーツヘ行くの、三等車で……お百姓さんたちにまじって。エレーツに行けば、教育のある商人たちがお愛想たらたらつきまとうでしょうね。きびしいわね、生活って!
トレープレフ  エレーツヘ何しに?
ニーナ  冬いっぱいの契約を引き受けたのよ。もう出発する頃合いだわ。
トレープレフ  ニーナ、僕はあなたを呪い、憎んで、あなたの手紙や写真を破ってしまったけれど、それでも僕の心が永久にあなたに結びついていることを、たえず意識してきたんです。あなたを嫌いになるなんてことは、僕にはできない、ニーナ。あなたを失って、作品が活字になるようになってからこの方、人生は僕にとって堪えがたいものなんです。僕は苦しんでいる……若さがふいにもぎとられてしまったみたいで、自分がこの世にもう九十年も生きながらえてきたような気がしますよ。僕はあなたの名を呼びつづけて、あなたの歩んできた地面にキスしているんです。どっちを見ても、いたるところにあなたの顔が見える。僕の人生の最良の時代に、僕に向かってかがやいてくれた、あのやさしい笑顔が見えるんです………
ニーナ  〔途方にくれて〕何のためにあんなことを言うのかしら、なぜあんなことを?
トレープレフ  僕は孤独なんです。だれの愛情にも暖められずに、まるで地下室にいるみたいに寒いんだ。何を書いても、みんな無味乾燥で、かさついていて、陰気くさいものばかりだし。ここに残ってください。ニーナ、おねがいだ。でなけりや、僕もいっしょに連れて行って!
 〔ニーナ、手早く帽子とマントをつける〕 
トレープレフ  ニーナ、どうして? おねがいだから、ニーナ……〔彼女が身支度するのを見つめている、間〕
ニーナ  木戸のところに馬車を待たせてあるの。送ったりしないで。一人で行けるから……〔涙声〕お水をくださる……
トレープレフ  〔水を飲ませる〕これから、どこへ?
ニーナ  町よ。〔間〕お母さま、いらしてるんでしょう?
トレープレフ  うん……木曜日に伯父さんの具合がわるかったで、すぐ来るように電報を打ったんですよ。
ニーナ  あたしの歩んできた地面にキスしていたなんて、なぜおっしゃるの? あたしなんか、殺さなけりゃいけないのに。〔デスクの方に身を傾ける〕とても疲れたわ! 休みたいわ! 〔頭をあげる〕あたしはかもめ……違う。あたしは女優だわ。ええ、そうなの! 〔アルカージナとトリゴーリンの笑い声をきいて、耳をすまし、それから左手の 戸口に走りよって、鍵穴からのぞく〕彼も来ているのね……〔トレープレフの方に戻りながら〕ええ、そうね……かまわないわ……そう……彼、演劇を信じないで、いつもあたしの夢を笑っていたのよ。だからあたしまで少しずつ信じないようになって、気落ちしたわ……そこへもってきて、恋の苦労だの、嫉妬だの、たえず赤ちゃんのことで心配したりで……あたしはちっぽけな、取柄のない女になってしまって、演技もまったくナンセンスだったわ……手の使い方もわからないし、舞台に立っていることもできない始末で、声も思うようにだせなかった。ひどい演技だと自分で感じる、そんな心境、あなたにはわからないわね。あたしはかもめ、よ。ううん、違う……おぼえてらっしゃる、あなたがかもめを射ち殺したことがあったわね? たまたまやって来た男が、目にとめて、退屈しのぎに破滅させてしまったの……小さな短篇の主題ね……これは違う話だわ……〔額を拭う〕何の話だったかしら? 舞台の話ね、今のあたしは、もう違うわ……あたしはもう本当の女優よ。喜び楽しんでお芝居をしているし、舞台の上で陶酔して、自分をすばらしいと感じるんですもの。今この町で暮らしている間だって、いつも歩きまわって、歩きながら考え、考えながら日ましに精神力が成長してゆくのを感じているわ。……今ではあたし、はっきりわかって、知っているのよ、コースチャ、あたしたちの仕事では……だって舞台でお芝居するのも、ものを書くのも同じですもの、あたしたちの仕事で大切なのは名声でもなければ、華やかさでもないし、かつてあたしが夢みていたようなものでもなくて、じっと耐えていく能力なんだわ。おのれの十字架を背負ってゆくすべを知り、信じなければいけないのよ。あたしは信じているから、そんなに辛くないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。
トレープレフ  〔悲しそうに〕あなたは自分の道を見いだして、自分の進んでゆく先を知っているのに、僕は相変わらず幻想とイメージのカオスの中をさまよいながら、そんなことがだれにとって何のために必要なのかも、わからずにいる始末なんだ。僕は信じていないし、何が自分の使命かもわからないんです。
ニーナ  〔耳をすましながら〕しィ……あたし、行きます。さようなら。あたしが大女優になったら、見にいらしてね、約束してくださる? でも、今は……〔彼の手を握る〕もうこんな時間ね、立っているのがやっと……へとへとで、お腹もすいたし……
トレープレフ  もっと居たら。夜食を支度するから……
ニーナ  ううん、いいのよ……送らないでね、一人で行けるから……馬車は近いのよ……つまり、お母さまが彼を連れてきたってわけね? いいわ、どうだって。トリゴーリンに会っても、何もおっしゃらないで……あたし、彼を愛しているの。前より、もっと愛しているほどよ。……小さな短篇の主題ね、好きなの。熱烈に愛してる。死ぬほど好きだわ。前はよかったわね、コースチャ! おぼえてらして? なんて明るい、ほのぼのとした、楽しい、清らかな生活だったのかしら。なんて素敵な感情だったんでしょう……可憐な、繊細な花を思わせるような感情ね……おぼえてらして? 〔朗誦する〕人間も、ライオンも、鷙も、しゃこも、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も、水に住んでいた物言わぬ魚も、ヒトデも、そして肉眼では見ることのできなかったものも……一口に言って、すべての生き物、あらゆる生物が悲しいワンサイクルを終えて、消えてしまった……すでに何千世紀もの間、地球にただ一つ生き物をのせていないし、あの哀れな月もむなしく明りをともしている。もはや河原で鶴が一声鳴いて目ざめることもなく、菩提樹の茂みにコガネ虫の羽音がきこえることもない」
〔発作的にトレーブレフを抱き、ガラス戸から走りでる)
トレープレフ  〔間をおいて〕だれかが庭で出会って、あとで母さんに話したりすると、まずいな。母さんを悲しませることになりかねないからな……
 〔二分ほどの間、自分の原稿を無言で全部破ってはデスクの下に放り棄てつづけ、そのあと右手のドアの鍵をあけて退場〕
ドールン  〔左手のドアを開けようと努めながら〕変だな。ドアに綻がおりてるみたいだ……〔入ってきて、肘掛椅子を元に直す〕障害物競走だね。
〔アルカージナとポリーナ登場、つづいて酒壜を何本も持ったヤーコフ、マーシャ、さらにシャムラーエフとトリゴーリン登場〕
アルカージナ  赤のワインと、ボリス・アレクセーエウィチ用のビールは、こっちのテーブルにね、勝負をしながら、飲みましょうよ。さ、ご着席ください、みなさん。
ポリーナ  〔ヤーコフに〕お茶もすぐにお出しして。〔蝋燭をつけ、カー
ド・テーブルの前に坐る〕
シャムラーエフ  〔トリゴーリンを戸棚のところに連れてゆく〕ほら、これがさっき言った品ですよ……〔戸棚からかもめの剥製をとりだす〕あなたのご注文の品です。
トリゴーリン  〔かもめを眺めながら〕おぼえてないな! 〔ちょっと考えて〕おぼえてませんね!
〔右手の舞台裏で銃声。一同ぎくりとする〕
アルカージナ  〔おびえて〕何かしら?
ドールン  何でもありませんよ、きっと、わたしの薬箱の中で何か破裂したんでしょう。心配ありませんよ。〔右手戸口から退場し、三十秒ほどして戻ってくる〕やっぱりそうです。エーテルのガラス壜が破裂したんです。〔口ずさむ〕「われふたたび君の前に、心ひかれて立つ……」
アルカージナ  〔テーブルにつきながら〕ふう、びっくりした。前の時のことを思いださせられて……〔両手で顔をおおう〕目の前が真っ暗になったほどよ……
ドールン  〔雑誌のページを繰りながら、トリゴーリンに〕ニカ月ほど前、ここにある論文がのりましてね……アメリカからの書簡なんですが、あなたにおたずねしたかったのは、その中で……〔トリゴーリンの腰をかかえて、フット・ライトの方へ連れだす〕……わたしもその問題にとても関心をいだいているもんですからね……〔口調をおとして、小声で〕イリーナ・ニコラーエヴナを、ここからどこかへ連れだしてください。実は、コンスタンチン・ガヴリーロウィチがピストル自殺をしたんです……

 

 

 原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。

 原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

 

 

 

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