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デュラスは言った

「まだ書いていない本と一緒にいるのはつらいことよ」とデュラスは言った。

M.Duras。現在はモンパルナス墓地に眠る。閑静な公園みたいな、明るい美しいパリの墓地だ。

本名のM.ドナデューと刻まれた平たい墓石の上には、ファンからと思われる万年筆やペンが大量に供えられ、絶えることがない。いや、年々増えている。

日本ならば菊の花や、故人の好物を供えるところだ。

それが万年や筆ペンって。文章の上達を願ってだろうか。

それでは天神さま菅原道真ではないか。

学力上昇をねがって筆や絵馬を奉納。全国に分布する、悪いところをなでると治る牛の像など。(たいてい膝のあたりがなでられすぎて塗装が剥げている。)

そういうのと同じメンタリティを感じる。パリ人もそうなのかな。


「誰にでもまだ書いていない本がある。誰にでも本がある。」

とデュラスはつづける。

いうなれば、誰にでも物語になりえるような、そのひとだけのドラマがあり、内面の劇的なものがあり、その人だけの、あることにまつわる感情のジェットコースターの/あるいは静かにでも大切な、物語がある。

なんて説明的になっちゃうと野暮の骨頂―。

ただ、
このひとのつかう用語はところどころ独特で、


特に「本」、特に「物語」、という単語が、

わたしたち・すなわち地べたを這い回って暮らしているわたくしたちとはちがって、なんだかイタコがあちらの世界の言葉を
われわれに伝えているような、


あるいは卑弥呼(あったことないけど)が、亀の甲羅の割れたのを見て199X年空から恐怖の大王が降ってくるとかこないとかみたいな意味ありげなワードをはくような、そんな調子で巫女的なのです。
極度に詩的なだけなんだけど、詩的も突き抜けると、なんかのご神託みたくなる。それを一般市民は噛み砕いて日常の言語に翻訳するわけです。いっしょうけんめい。


このひといわく、
「本は製本されたかたちでなくてもいいのです。」

私めがその巫女になったつもりで通訳してみます。「心の中に、そっとあるようなかたちで、ただ本なのです。」(これはわたくしが勝手にした曲解にもとづいた翻訳ですがね。)

現代だったら、ブログでもいいんだろうか。

じゃあそれに基づいて超現代語訳してみる。デュラス、充分、現代人だけど。


「だれにでも、まだ書いていないブログ、あるいはWeb日記があるのです」キマらないな。


「まだ書いていないブログあるいはWeb日記と一緒にいるのはつらいことよ」
一気に恰好がつかなくなった気がする。


ブログ及びweb日記はそんなにクオリティが低いか。そんなことはあるまい。
そんなに文学性が低いか。否。いまどきそんなことはあるはずがあるまいあるまい。
「本」という単語の内包するものに追いつけ、追い越せ、の勢いで、成長する言葉たち。だからみんな、ブログ書こうね。Web日記もね。


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