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ニコニコ超会議2022にあんまんを食べに行ったら、親子でヒップホップとダイバーシティ&インクルージョンを感じてきた話

5歳の娘がYouTube中毒になりまして。
親としての不徳を恥じ入るばかりなんですが。
「はい。今日はもう時間だからおしまいね」
とでも切り上げようものなら
「動画見れないとヒマ」
などと言い出すようになりました。
自分で遊ぶための工夫をしなくなっちゃった。受け身体質。
こりゃマズい、と。

ネットコンテンツの醍醐味は「好きを嗜むこと」だと思っています。
配信する人がなんで配信しているのか?
なんであんなに動画に工夫を凝らしているのか?
を意識しないと、動画コンテンツはとくに、視覚刺激と聴覚刺激が病みつきになってしまいます。
昔、パチンコ台を作っていたことがありまして。一部のネット動画は思考停止にさせるという点において、その編集技術がとても似ています。

そんな説教くさいこと言うまでもなく、自分の「好き」を知っていたほうが楽しい。
ネットを海とするなら、コンパスのようなものです。
なら、その「好き」の達者たちに会いに行こう、ということで。
誘ってみました。ニコニコ超会議2022に。
ま、YouTubeとニコ動というプラットフォームやカルチャーの違いは、この際おおめに見ることにして。

えっちらおっちら電車で一時間以上かけて向かいましたよ、幕張メッセ。
もうね。入場口にたどり着く前から、人波がタダゴトではない雰囲気。
娘もそれを察していたようです。
「1、2、3、4・・・」
小さな声で何か数えていました。
「なに数えてるの?」
「あれ」
「あれとか言わない」
「ドレス着てる人」
「指をさすんじゃない」
そうです。コスプレイヤーのみなさん。
初めて見るクオリティの高いコスプレイヤーのみなさんに、娘と私は目が釘付け。
「あ!善逸!」
知っているキャラクターがいようものなら、思わず声を上げます。
コスプレイヤーの方も、子ども相手となれば笑顔で手を振ってくれる。
娘はその迫力と優しさのギャップに、照れるばかりでした。
そう。好きなことを堂々と表現している人は、強い。強いから、優しい。
だって、好きなことを堂々と表現するのって、少し勇気がいるじゃないですか。
それを乗り越えた人たちならではの、鷹揚さがあるんですよね。
親としてはそれに触れてほしかった。だからシメシメ。ツカミは完璧です。
「プリキュアいるかな?」
「たぶんいるよ」
親子でワクワクしながら、入場口をくぐりました。

「こわい・・・」
HALL1に入った娘は、のっけからたじろぎました。
なんか薄暗い。目の前には高級な痛車がズラリ。
右手の奥では踊ってみたやってる。左手では歌ってみたやってる。
そりゃ、驚きますよね。
ちょっと見渡せば、神社はあるし、自衛隊いるし。
しかもコーナーごとの区切りが曖昧になっていたりするので、けっこう向こうまで見渡せて、異空間がずっと続いている予感。
もう何が起こってるのか。この人たちはなぜここにいるのか、どこに行くのか。ぜんぜん分からない。
宇宙と宇宙が脈絡なく連なっています。

なんですが、私は入った瞬間思いました。
あ。ここで迷子になってもたぶん大丈夫だ、と。
というのも、みなさん、意外とスマホを見てない。
誰かとおしゃべりしてる。お目当ての出し物を見ている。何か手に取りしげしげと見入っている。穏やか。
ああ。やっぱりここは、生身の「好き」を五感で楽しむ場所なんだと。
それも、いろんな「好き」が集まっている。
みんながそれぞれに好きなものごとを、好きなように求めて、誰にも邪魔されず、邪魔せず。
お互いそれなりの距離を保って、少し興味を持ちあったりして、わちゃわちゃ楽しく過ごしている感じ。
あ。これ、Peace/Love/Unity/Having Funじゃん。と。
ヒップホップだな、と。
だったら万が一、娘が迷子になっても、なんとかなるんじゃないかと感じました。
意外と子ども連れもいるし、と。

娘を肩車して、きいてみました。
「どう?」
「なにが?」
「どんな感じ?」
「わかんない」
「正解」
そう。それ。わかってしまったら面白くない。
動画コンテンツはどうしても、内容がサムネイルでわかってしまいます。
結果、面白いとわかるものしか観ない、となってしまう。
それじゃ確認作業だよ、と。
自分はわからないけど、なんだか楽しんでる人たちがいる。という世界を覗ければ成功。
さらに、自分の好きに出会えれば大成功です。
「仮面ライダーいた。疲れてる」
とも報告してくれました。たしかに、私の目から見ても、疲れた仮面ライダーがいました。

腹が減ってはなんとやら、ということで、そのままフードコートエリアへ。
ありました。パンダまん。
600円。高っ!
でも娘と約束しちゃったんだからしょうがない。
買いました。パンダのかわいいあんまんを。
あと。もちもちポテトフライ。
行列、長っ!
最後尾の人は「ここが最後」というフリップを自らもって、後ろに並んだ人に渡していく、というルール。民主的。かつ人を信じている。
それもまた、この催しのなせるわざでしょうか。

食事エリアも、みんなほんとうに行儀がいい。
かならず入口から入る(ロープを跨いでエリア侵入する人は皆無)。
消毒もする(料理で両手が埋まってたらいったん置く)。
基本的に黙食(一人で来ている人も多いし)。
ここでもスマホに熱中している人は少ない(ガイドブックみてる)。
次の人が来たら席を譲る(独善的なほど席取りしている人なんていない)。
ゴミは必ずゴミ箱へ(会場全体が非常に清潔)。

ちょっと思ったんですが。これ、みんな意識的なのか無意識なのか、この場を大切に思ってるからなんじゃないかと。
日頃からオラつく人間が大嫌い(というか怖い・対処できない)自分にとっては、とても居心地がいい。10年前にも一度来ましたが、あの時もそうでした。
が、今年はさらに、と言う感じ。もしかすると数年越しのリアル開催ということも影響しているのかもしれません。
その日は妻も同行していたので、パンダまん、もちもちポテトフライ、鳥の唐揚げ、牛タン弁当、ローストビーフ丼、モツ焼きうどん、辛麺、ソフトクリームに舌鼓をうち、食事エリアを後にしました。

かくして、いよいよコスプレ撮影推奨エリアへ。
まあいるわいるわ、コスプレイヤーのみなさんが。
正統派の見目麗しいコスプレイヤーさん、超作り込んだライダーとか。にくまんのコスプレもいました(孤高感がすごかった)。
でも、同じスタイルの人は二人といない。初音ミクはたくさんいましたが、みな思い思いのオリジナリティを発揮しています。
そしておのおのの違いを楽しんでいる。
そりゃ、ありますよ、クオリティの違いというか、差というか。
カメコ(って今でも言うんですかね。古いかな)に声をかけられることなく、所在なさげに見える人も。
でも、誰も指をさしたり、嘲ったりしないし、そこにちゃんと居場所がある雰囲気がある。ま、そういう人もいるよね、と。何か問題でも?と。
少なくともこちらから拝見する限りは、惨めな印象はうけない。
というか、そういう方がいられるというだけで、どれだけその空間が懐深くなることか。
あー、これ。ダイバーシティ&インクルージョンじゃん、と。
「プリキュアいる?」
「いない」
「あれは?」
「あれは違う」
「んーごめん。今日はいないかも」
「髪の毛が緑の人はいっぱいいる」
娘は肩の上でキョロキョロしていました。
違いを無視するんじゃなくて。違いをじゅうじゅう知った上で、なにを共有できるのか。

いわゆる世間で言われるD&Iってのは「自分では選べなかった・どうしようもなかった」個性や事情が前提のような気がします。
その人の責任じゃないことなのに、誰かに都合がいいだけの不均衡をほったらかしにするのは、フェアじゃない。どころか卑怯ですらある。
というか、その社会の設計図、いっときの時代・一部の人にしか通用しなくないか?みんななんかしらのマイノリティだよ?と。
なんなら、知らず知らずのうちに加害者になっていたり、抑圧者になっていたりすることだって、自分で選んだわけではないかもしれない。
それって不本意だし、居心地悪くない?
そんなふうに捉えていたりします。

じゃあ。「自分では選べなかった・どうしようもなかった」の先にある、
「なりたい自分・歩みたい人生を選べる」ようになった社会って、どんなところ?
このコスプレ撮影推奨エリアは、なりたい自分になった人々が、楽しく過ごしていた。自分であることを誇っていました。
あれ?もしかすると、この撮影推奨エリアは、かなり参考になる何かがあるのでは?
なんて思ったり。

それは、国際展示場9-11ホールの奥。マニアフェスタにも感じました。
もうね。世界には、どうでもいいものごとなんて、何一つない。
そう感じられるくらい、どうでもいいことを突き詰めている人たちばかり。牛乳、リーゼント&改造学ラン、魚の尻尾(魚屋さんが出店)、お弁当の食べ順などなどなど。
説明されても理解できない、なんてもんじゃない。
そもそも何言ってるかちょっとわからない、というレベル。
でもそれが、どうにも心地よい。
持て余すほどの好奇心というか探究心が、ずらりと軒を並べていました。
娘は終始、訝しんだ顔をしていました。
正直、目がキラキラしていたかというと、していません。
ずっと意味不明なことにさらされ続けた感じ。
それでいいのです。
生きることのほとんどには、サムネイルなどないのですから。慣れるな、サムネイルに。

とかなんとか考えながら、私もぐったりして、会場を後にしました。
毒 もとい 熱に当てられて、長風呂したみたいな感じ。
足を引き摺りながら、海浜幕張の駅にとってかえします。
で。道みち考えたんです。
この会場。オラつくヤツだったり、他人を冷やかすことが楽しいやつがいると、台無しになるんだろうな、と。
人の楽しい時間を台無しにすることが無上の喜び。そんなやつ、いっぱいいますから。
荒らしに来てストレス発散みたいなせばそんなヤツも、お金さえ払えば入れるはずなのに、なんでここにはいないんだろうと。
入場口で
「あなたはまともな人ですか?クソですか?」
みたいにチェックしたら、たぶんそれはもう排斥。価値観という名の排除です。人が人を選別してるだけ。
じゃあどうやって、ニコニコ超会議はこの調和を作り出しているんだろう、と。
どうしても不思議でした。

たぶん、なんですが。
この場所は、かつて何かがこよなく好きだった自分を思い出しそうになるんですよね。
あるいは、自分もこれから何か好きなものが見つかるかもしれない、という予感というか期待というか。そういってもいいかもしれない。
だから、心の力みが抜けるんですよね。
それくらい、好きが詰まっていましたし、それを楽しむ工夫が空間全体に、見て触れられるかたちでそこに存在していました。

で、気づいたのです。
そういえば、好きなものがなくなってるの、俺じゃん、と。
子どもに「好きなものを」とかぬかしておきながら、
とうの自分には、なにか打ち込めるものとか、狂わしいほど没頭できるものとか、なくなってる。
俺、楽しそうな顔を、子どもに見せられているのかな、なんて、
疲労の色濃い顔で、京葉線に乗り込んだのでした。

おしまい。



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