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言葉を使って生きているすべての人に読んで欲しい本「まとまらない言葉を生きる」

うっかり往きの列車だけで読みきってしまった。そんな本がある。

出張の移動は長いから、そのお供にと思って、それなりに厚みのある一冊を選んだのだけれど。目的地到着の車内アナウンスが聞こえる頃には、ページが尽きていた。

なぜなら、どのページもパンチラインでいっぱいだったからだ。しかも文章が美しい。わざとらしくない美文は、お酒のように後を引く。おかげで車内販売でビール買うの忘れたし、帰路のためにとっておくことなんて考えられなかった。

「きっと俺は、またこのフレーズに会いたくなる」
そう予感させるページの端を折るクセがあるのだけれど、気づけば半数以上のページが折れていた。意味ない。赤ペン引きすぎ参考書みたいな。目印が目印になってない。

本の名前は「まとまらない言葉を生きる」。
荒井裕樹氏が著したものだ。二松学舎大文学部の准教授。専門は障害者文化論と、日本近現代文学。被抑圧者の自己表現活動を専門に研究してきたという。

氏はこの本を、こう始めている。
言葉が壊れてきた、と。それはいわゆる“言葉の乱れ”のようなものではなく。人を傷つけたり貶めたりする負の言葉が生活や政治の場に溢れ、言葉の役割や存在感が変わってきた、ということ。言葉は本来、人を元気づけたり希望を温めたりすることもできるはずなのに、と。

でも。言葉が壊れるとは、具体的に何が壊されることなのか?それをきれいにまとめようとすると、こぼれ落ちる何かがある、とも。

だからこの本は、無理にわかりやすくまとめようとしない。
その代わり、壊されていく言葉たちに再び命を与えるかのように、尊さや優しさ、いわば言葉の尊厳を感じられるエピソードを、発言や作品の引用をまじえながら一話ずつ紹介していく。
言葉たちに、祈りを捧げるのように。言葉の魂を呼び戻そうとするかのように。
つまり、言葉を諦めていない。文学者ならではの強靭さ、なのかもしれない。

んー抽象的。
SNSや政治ニュースなどで飛び交う言論にゲンナリ、なんならグッタリしてしまうことの多い自分は、「まえがき」だけで満腹級に共感したのだが、何に共感したのかと自問すると、自答できるほど掴みきれていない。
だから、その共感とやらが著者の真意を捉えているかどうかもアヤシイものだ。共鳴、あるいは共振といったほうが正しいのかもしれない。

なんていう戸惑いは、読み進めるうちに消えた。なんなら第一話で、早々にどこかへ失せた。
書中で紹介されるエピソードや発言は、どれもみな具体的で、鮮明で、熱のある手触りだったからだ。
障害者運動の活動家たちが多く登場するそれらは、人が人に何かを伝えることの、根源的な希望を思い出させてくれた。

たとえば、こんなフレーズが紹介されている。
らい病、つまりハンセン病の闘争に尽力した森田竹次という人のもの。
「人間の勇気なるものは、天から降ったり、地から湧いたりするものではなく、勇気が出せる主体的、客観的条件が必要である」

いい。すごくいい。かっこいい。
でも、長い。フレーズとは書いたものの、長い。
そう。この本で紹介されるされるパンチラインは、基本的にどれも長いのだ
(「刻まれたおでんは、おでんじゃないよな」という話も好きなのだが)。

なぜなら。大切なことは、コンパクトにまとめられないから。短い言葉では言い表せないもの、要約すると圧死してしまうものがあるから。

端的に。結論から。エレベーター・トーク。140文字以内で。
私の生活はそんな会話に溢れていて、とっくに疑問に思わなくなった。ショート動画のようなやりとりに慣れきってしまった結果、失ったのは行間を感じる力、つまり想像力なのかもしれない。だって、日常に行間がないんだもの。

それはとりもなおさず、聞くことの軽視、いや怠慢といってもいい。伝えるばかりで、聞くことはしない。そこにあるのは”聞く”ではなく、相手からのリアクションの確認だけだ。Yes?No?
伝えることがそうであるように、聞くことにもまた想像力が必要になるのに。私はきっと、自分のもっている想像力の半分しか使わずに生きている。傾聴は想像の入口。想像力こそ対話の本質なのに、だ。

その点この本は徹頭徹尾、耳を傾ける、という姿勢に貫かれている。
尊厳ある言葉にまつわるエピソードを発言や作品の引用をまじえながら紹介した本、と先に書いたが、それと同時にこの本は、著者である荒井氏がどうやって活動家たちの言葉を聞き重ねてきたか、という本でもある。

そんな補助線を引くと、この本の「まとまらなさ」に五線譜が引かれる。
エピソードの一つ一つは、ハンセン病に関すること、ウーマンリブや脳性まひに関することなど、バラバラに見える。でもその間あいだには、響き合いが確かにある。
言葉による交響。私の読後感は、いい本を読んだというよりも、いい音楽を聴いたなー、というものに近かった。そこに感じたのは、著者が聞くことで働かせた想像力という通奏低音だった。

ダイバーシティ・コンテンツ・リサーチャーを名乗り、障害やジェンダー、人種・国籍、宗教など、物語と物語の間にこそ人間理解のアップデートがあると信じている自分としては、そこに共感したのかもしれない。書いてて気づいた。

言葉でまとめられないもののために、まとめてはいけないもののために、映画や小説、あるいは音楽という表現があると思っていた。し、思っている。
でも。この本のような実現の仕方もあるのだ。それもまた一つの希望だし、著者のような姿勢が、人を生きやすくするのではないだろうか。人間や社会を見る目の解像度が高いからまとまらない、ということもあるのだから、それを大切にしない手はない。

もし、誰かに何かを伝えるお仕事についていたり、言葉による表現に興味がある人は、ぜひ。いや、言葉を使って生きている人に、ぜひ。
「そりゃ6刷まで重版かかるわ」と納得できるほど面白いですよ。

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