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【短編】人生の器(1/2)

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あらすじ:私は、夫と仲違いした娘と落ちあった。アパートに向かう途中の電車の中て娘が見掛けた「青写真」の看板とアパート周辺の雰囲気が、結婚当時の記憶を呼び起こした……。

「ねえ、青写真って、何?」
 私は電車のドアに寄りかかり、窓からぼんやり外をながながめていた。
「えっ、何か言った?」
 私は夏美の方へ首を回す。顔をす春の日差しがまぶしい。
「青写真よ。さっきビルの屋上に看板が出ていたの」
「あら、なつかしいわ。まだあるのね」
 夏美の視線を追って探してみたが、とっくに視界から消えていた。夏美に向き直る。

「そうそう、青写真だったわね。写真って名前だけどコピーみたいなものよ。ほら、お父さんの設計会社、小さい頃あなたも何度か遊びに来たことがあるから覚えているわよね。あの狭い事務所の真ん中に、でーんと大きな機械があったでしょう。あれよ。
 図面と専用紙を重ねて一緒に入れるとね、専用紙の方に図面が複写されて出てくるの。図面の線の部分が濃青色で全体が淡青色だったから青写真って言ったのよ。うちでは青焼きって言ってたわね」
 当時のことでも思い出したのか、夏美はわずかに目を細める。

「でも、でき上がりは、まだ湿っていてね、乾くのに時間が掛かるの。お父さんは青焼きを使って図面をチェックするから、私はじりじりしながらそれが終わるを待って、大急ぎで図面をお客様に届けたものよ。それにお父さん、自分が納得できるまで徹底してやるから、いつも図面が上がるのが納期ぎりぎりで、本当にやきもきさせられたわ」
「そういえば、お父さん、よく徹夜していたわね。私、いつか体を壊すんじゃないかって心配していたんだから」
「あら、そうだったの。だったら、ちゃんとお父さんにそう言えばよかったのに。喜んだわよ、きっと」
 夏美が黙る。私は窓の外に視線を戻した。


 もう三十年以上前のこと。
 結婚して一年後。夫は会社を辞めて設計会社を起こした。世の中の景気は上り調子の頃だったとは言え、周りからは無謀だとの声が少なからずあった。案の定、最初の半年は赤字続きで、貯金を切り崩しながら、夫の前の会社から仕事をもらったりして、どうにかしのぐ日が続いた。そうするうち仕事の堅実さと丁寧さが認められて、少しずつ仕事が増えていき、何とか先行きが見えてきたのが一年後くらい。軌道に乗り始めたのは二年が過ぎた頃だった。

 その間、当時ある製造会社の幹部だった父が、密かに取引先に頼んで仕事を回してくれたのも大きかった。そのことは、ずっと後になってひょんなことから知ったのだが、私は父に対して未だに知らない振りを続けているし、ましてや夫には話さえしていない。私だって、男のきようくらいは分かるつもりだ。

 二人だけでアパートの一室から始めた会社だったが、仕事が増えるに連れ建屋を借りて、一人、二人と雇い入れた。やがて新しく社屋を建てて、今では十人の社員を抱えるまでになった。
 いつか複写機も扱いが容易な乾式へと置き換わっていった。役目を終えた機械は倉庫の隅で埃をかぶっている。もう使い道はないし、邪魔なだけの存在なのだが、苦労をともにしてきた同志を簡単に捨てる気にはなれないと、夫は笑う。


 私は、夏美と横浜駅で待ち合わせた。そこから京浜東北線の電車に乗り換えた。余り話すこともなく、車窓から段々と人々の営みが密集していく様を眺めながら、K駅で下りた。
「乗りっぱなしで疲れたでしょう。歩いても二十分掛からないと思うけど、タクシー、使う?」
「いいわよ、もったいない。先を歩いてよ。私は後から付いて行くから」
 夏美は、時折振り返りながらも、駅ビルの通路をすいすい抜けて行く。私は、ひたすら夏美の背中を追った。

 階段を下りて西口から駅ビルを出ると、四方をビルに囲まれた、箱の底みたいな空間に、ぽつんと放り出された。その奥の方がロータリーになっていて、そこから何本かの道路が切り通しのようにビルの間を抜けている。
 見上げても、ビルの壁で切り取られた多角形の空しかなく、それは私を妙に浮き足立った気持ちにさせる。私にはどうにもめそうにない。この街で暮らしていける夏美に、私は少し気後れを覚えた。

 カツカツ。夏美は、ロータリーに沿って左に曲がっていく。私は少し遅れてその音を追った。落とした視線の先を黒いハイヒールがかっする。
 ――あれは確か就職祝いに買ってあげたもの。まだ使ってくれているんだ。
 よく手入れされていた。少しほっとして顔を上げると、派手な色合いの看板が目に飛び込んできた。

 意匠化された朝日と、その下に『SunRise K*****』とK駅の名が書かれた看板。恐らくこの通りは、その昔『朝日町商店街』とでも言ったのだろう。アーケード化に伴い、横文字に名前を替えたことがうかがえる。一見パチンコ屋の看板みたいだが、いかにも昭和の匂いが漂う。
「あれって、アーケードだよね」
 勝手に足がその方に向いた。
「ねえ、こちらからでも行けるのでしょう?」
 私は返事を待たずにアーケードをくぐる。平行する一つ先の通りを目指していた夏美は、
「そうだけど……。人が多くて歩きづらいわよ。自転車も多いし……」
 ぶつぶつこぼしながら引き返してきた。

 入り口近くには、寿司屋や蕎麦屋といった飲食店が占める。いずれも外装が新しく、色合いが今流行はやりの落ち着いた外観だ。もう少しすすけた感じを期待していた私は、ちょっぴり肩すかしを食らった気分になった。
 時代の波と言えばそれまでだが、古くからのものが消えていくのは寂しい。しかし一方で、私は今風の構えの店も嫌いではない。新しい店を開拓するのも好きだ。気持ちの切り替えが早いのは、私の長所だと思う。
「色々な店があるのね。色とりどりで、お洒落な店も多いわ」
 急に立ち止まったり、戻ったりと、にわかに歩みがのろくなった私に、
「随分熱心ね。もうここには来ることはないでしょうに」
 と夏美はあきれた声を出す。
 ――しっかりと見ておきたいのよ、あなたが暮らす街をね。

 かつて私が住んでいた町にもアーケードのある商店街があった。魚屋、八百屋、薬局、本屋、洋服店などが軒を連ね、大抵の用はそこで足りたものだった。
「ねえ、覚えている? 昔住んでいたあけぼの町の魚屋のおじさん。あなたは、小さい頃、よく夜中に熱を出してね。その度に私は商店街まで走って、店のシャッターを叩いて、氷を分けてもらったものよ」
「忘れるもんですか。大きな氷のごつごつで、頭が痛かったもの」
 あの頃は商品と一緒に人情まで一緒に売っている店主が多かった。魚屋のおじさんも、そんな一人だった。

 そんな思い出にひたっているうちにアーケードを抜けてしまった。あっという間だった。
 その先は、ビルの並木を抜ける、真っ直ぐな道路が続いているだけだ。途端に私の足取りは重くなる。
 ――まだかしら。やはり意地を張らずに夏美の提案に乗っておけばよかった。
 悔み始めた頃、夏美は唐突に角を曲がった。私は小走りに夏美を追って続く。その途端、目の前に広がった風景に私の足はぱたと止まった。
 あっ。私が上げた声に、夏美は振り返った。

「どうしたの? 疲れちゃった?」
 ううん。私は小さく首を振った。どうにも今日は、心の天秤が不安とあんとの間でふらふらよく揺れる。
「この感じ、結婚当時住んでいた町並みに、どことなく似ているの」
 そこには古い木造の家々が、車二台がどうにかすれ違えるほどの路地の両側で、肩を寄せ合っている。そこだけ何十年も前から時間が止まったままのようだ。
「もっと田舎の、もっとくたびれた家ばかりだったけど、何と言ったらいいのかしら、そうかもし出す空気感みたいなものがね、同じなの。この辺りに住んでいるの?」
「そう。アパートはもう少し奥の方だけどね。こんな所でびっくりしたでしょう。でも二十三区内で、駅からもまあまあ近いから、家賃はそこそこするのよ」

 へーっ、そう。つぶやきながら見回す。その時、かちっと私の中で何かが外れる音がした。
「実はね、私たち、駆け落ち同然で一緒になったの」
 つい口をいて出てしまった。
「えっ。そんな話、今まで教えてもらったことないわよ」
 夏美はとんきような声を上げる。
「それはそうよ。あなたが生まれて何年かして、なし崩し的にお互いの親に許してもらったけど、未だにその話をするのははばかられるもの」
「じゃあ、何で私に話したの?」
「決まっているじゃない、娘だからよ」
 思いのほか私の声が強かったのか、夏美は目を丸くする。私は小さく咳払いして話を続けた。
「それでね、私が家を飛び出して一ヶ月ほどたった頃、お祖母ちゃんがアパートを訪ねて来てね。忘れもしない、四月に入って最初の土曜日だったわ……」

【短編】人生の器(2/2)に続く


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