【短編】人生の器(2/2)
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昼下がり。ノックに応えてドアを開けると、母が立っていた。咄嗟に目を逸らす。
「上がるわよ」
母は、立ち尽くす私の横をすり抜けた。玄関横の台所と居間の二間だけのアパート。箪笥と卓袱台のほかには何もない狭い部屋。言葉を呑んだまま、視線だけで母の背を追う。母は卓袱台の前に座った。首を回し、目で私に座るように促している。私は顔を伏せたまま母の正面に座り、膝の上で拳を握りしめた。
「あなたもそれなりの覚悟で家を出たのでしょうから、今更連れ戻すつもりはないわ」
母はそこで一旦話を切った。私は詰めていた息をそっと吐いた。
「ただね、結婚式だけは挙げてほしいの。そして周りの人達にそれを披露してほしいの」
私は、てっきり激しく叱責されるものと覚悟したのに、思いのほか優しい言いようについ拍子抜けしてしまった。
「えっ。もう入籍も済ませたのよ。何でそんなに形にばかりこだわるの?」
私はそう言いながら視線を上げた。
途端に母の鋭い眼光に射られて、思わずたじろぐ。不断の母は物静かで、夫唱婦随を絵に描いたような人だった。だが今、目の前にいるのは、私の知らない母だ。
「あなたは独りで生まれて、独りで大きくなって、独りで何でもできるつもりでいるの。うぬぼれるのも、いい加減になさい」
母はぴしりと言う。私は思わず首をすくめた。母は一息ついて、口調を和らげた。
「あなたの周りには、あなたのことを心配している人がたくさんいるのよ。結婚式もそうだけど、特に披露宴はね、その人達にこれから二人で一緒の人生を歩いて行きますって、宣言する場なの。二人を認めてもらう場なの。そうやって自分たちの人生の器を作って、それに後から中身を入れていくの。あなたは馬鹿にするけれど、そうやって一つ一つ形にこだわることは、とても大事なことなのよ」
母は淡々と話す。一言一句が私の身に染みた。小さい頃、私が駄々を捏ねると、よくこんな風にたしなめられたことを思い出す。やはり母には適わない。改めて思い知った。
「人生の器って、何?」
私は、その疑問を口にするのがやっとだった。
「あなたがちゃんと生きてさえいれば、そのうち分かるわよ。いい、絶対にそうなさい。ねっ」
『ねっ』と同時に、母の目がふっと優しくなる。思わず鼻の奥がつんと熱くなった。
「私の用はそれだけ」
さて。母は、ぽんと腿をたたいて立ち上がると、来た時と同じように唐突に帰っていった。何も言えず座ったまま、母が消えたドアを呆然と見つめる私。急に部屋ががらんとなった気がした。
その時になって、お茶さえ出さなかったことに気づいた。手のひらに食い込んだ爪の痕が痛む。母が座っていた場所。膝行して手のひらで触れると、畳にほんのりと温もりが残っている。お母さん、ごめんね。私はその場に崩れた。
私たちは、母の言いつけ通り、その年の冬に細やかながら結婚披露のパーティを開いた。
「お祖母ちゃんに、アパートの住所を教えたの、お父さんだったの。冷静に考えたら、それしかないわよね。でも、その時はそんなことにも気づきもしかなかったの。それほど思い詰めていたのね。その頃お父さんも、家業を継ぐ、継がないで親と揉めていてね。ほとんど実家と絶縁状態だったの。だから私には同じ思いをさせたくなかったのね」
私が促すと、夏美は俯いたまま、ゆっくり歩き出した。
夏美はやることが直截的で要領が悪い。そんなところは夫そっくりだ。二年前、家を出た時は、月曜日にアパートを借りたと告げて、その週末には引っ越していった。夫は何も言わなかったが、かなり不満だったようだ。
先日も、突然帰ってきたかと思うと、夏美はいきなり結婚すると切り出した。流石に夫も今度は黙っていなかった。丁々発止とやり合ううちに、夏美が、「別に許しを乞うつもりはないわ。一応報告に来ただけよ」などと口走るものだから、夫の怒りは頂点に達した。
「勝手にしろ」
「言われなくても、そうするわよ」
売り言葉に買い言葉。夏美は、捨て台詞を残して帰っていった。
事前に相談してさえくれれば、私が上手く話を持って行ってあげられたのに、と私は返す返すも口惜しい思いをしたものだ。
無言のまま歩く。角を二つ折れてアパートに着いた。
私は勧められるまま居間のソファーに腰掛けた。夏美はコーヒーを淹れてテーブルに置いた。私はクリームと角砂糖一個を入れ、ゆっくりかき混ぜる。両手で包むようにして、カップを口に運んだ。夏美は向かいに座り、自分のカップの少し波立つ黒い液面から立ち上る湯気を見つめている。先に沈黙を破ったのは夏美だった。
「それで、その人生の器って、どういう意味だか分かったの?」
やはり気になるらしい。私は更に一口すすってからカップを置いた。
「ううん、教えてもらう前に、お祖母ちゃんが亡くなっちゃったから。でもね、自分なりに考えたものはあるわよ」
「聞かせて」
「ずるは、だめよ。あなたもちゃんと生きていれば、そのうちに分かるはずよ」
私は再びカップに手を伸ばした。
「人生の青写真みたいなもの?」
夏美はなおも手がかりを探る。
「さあ、どうかしら」
私はとぼける。
「じゃあ、こんな娘を持って大変ね」
「何よ、他人事みたいに」
だけど、私は、こうなることは織り込みずみ。一途なところは、嫌になるほど私の若い頃に似ている。
――そろそろ本題に入らなくちゃね。
私はカップを置いて居住まいを正した。それを見て夏美も倣う。
「夏美、意地を張らないで一旦家に戻ってきなさい。お父さんのことは私に任せて。悪いようにはしないから」
夏美はこくりと頷く。
「あなたは、ちゃんと、自分が生まれ育った家から嫁いで行くの。いいわね。他のことはあなた達に任せるけど、いい、どんな形であれ披露宴だけは絶対やりなさい。ねっ」
夏美は黙って頭を下げた。
「さて私の話はこれでおしまい。近いうちに二人で遊びに来なさい。挨拶とか、肩苦しいことは考えなくていいから」
私は立ち上がって、窓から外に目をやった。
やはりこの辺りの家並みは、あの頃の私達を優しく迎え、包み込んでくれた町を彷彿させる。夏美が小学校に上がる前に引っ越したから、てっきり覚えていないと思っていた。しかし、それは原風景として、しっかりと夏美の心に刻まれていたようだ。いつしか頬が緩むのを感じた。
――人生の器って、含みがあって、いい言葉ね。母にしては、なかなか気が利いていたわ。
母の言葉は、逆上っていた頭を冷やして、今後のことをじっくり考える切っ掛けになったことは確かだ。母が面と向かって意見してくれたことで、私は真摯にこれからの人生に向き合うことができた。
今の時代は、私たちの頃とは随分生活様式も変わったし、それとともに考え方や価値観も変わった。だけど心は変わらない。だから本当に大切なことはやはり膝をつき合わせて話さなくてはならないと思う。だから私も、母と同じように、娘に伝えたつもりだ。もっとも成り行きで多少異なる部分もあったが。
私は、母のように上手く『ねっ』を言えただろうか。
帰りの電車の中、私はハンドバッグから一枚の写真を取り出す。夏美に見せるつもりで持ってきたが、途中で気が変わった。
近所の居酒屋の二階を借り切って開いた、私たちの結婚披露パーティのスナップ写真だ。それらしい飾り付けもないので、よく忘年会と間違われる。当時、私たちは経済的に余裕が無かったので会費制にして、堅苦しくならないようにと普段着で集まってもらった。会社の同僚や友人達に囲まれて、夫も私も満面の笑みを浮かべている。
父は出席こそしなかったが、母にお祝いを届けさせた。
私たちは、披露宴の招待者名簿を練ることで、自分たちの人生にどれほど多くの人達が関わっていて、いかにその人達に支えられて今があるか、改めて知らされた。この先、家族が増えるにつれ、更に付き合いの幅も広がり、支えられるばかりではなく、支える側の比重も段々増していく。そして節目、節目に、形にこだわることで、何となく心構えみたいなものもできてきた。母はそれを人生の器と表したのだろうと、私は思っている。
人生の器は、大き過ぎて中身がすかすかでも寂しいし、小さくて溢れるようでは困る。そろそろ私達も次の段階を見直す頃合いかも知れない。
写真を仕舞って、私は窓の外に目を向ける。その刹那、青い看板が飛び込んできた。
――あっ、あれかしら。
よほど注意してみていないと見逃しそうだ。青地に白い大きな文字で『青写真』と書かれ、その左上に小さく『喫茶』の文字が見える。
――何よ、まったく! あの娘ったら、そそっかしいわね。
私は文句の一つでも言ってやろうかと携帯電話を取り出してはみたものの、しばらく逡巡した後で仕舞い込んだ。
今日は、まず夏美が散らかしっぱなしにして行った憂さを片付けて、その後で母からもらった言葉を彼女に贈る算段だったのに。狂いが生じたのは、夏美の、「青写真って、何?」という問いかけが切っ掛けだった。
――おかげで余計なことまで、しゃべっちゃったじゃない。
私は再び電車の揺れに身を任せる。少し西に傾いた日がぽかぽかと心地よかった。
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