見出し画像

【短編】雪の音

(3,601文字)

「雪の音を聞いたことがありますか?」
 それは、カウンターに突っ伏していた女が、突然頭をもたげるなり、誰に言うともなく発した一言だった。小さな声だったが、はっきりと私の耳に届いた。
 バーはカウンター席だけの、四、五人も入れば一杯になりそうな小さな構えで、よいの客はその女と私の二人だけだった。店内では低音量でクラシック音楽が流れている。
 年配のバーテンダーが、二杯目の水割りを私の前に置きながら、首を横に振るのが視界に入った。相手にするなということらしい。しかし私はとつに、「えっ。雪の音、ですか?」と聞き返していた。バーテンダーは肩をすくめ、またグラスを磨き始めた。

 女はゆっくりと私に顔を向けた。年の頃は六十か、もう少し上に見えた。目がわっている。女はゆらゆらと私の席の隣に移って来て、
「ええ。雪が地面に落ちる時の、とても小さな音なんです……」
 と少しれつが怪しい口調で、ぽつぽつと語り出した。


 私が小学校三年生のことです。祖母は、数年前脳いつけつたおれてから、寝たきりでした。しゃべることもできません。でも私の姿を見ると、がない方の顔をくしゃくしゃにして喜ぶんです。私はおばあちゃん子で、祖母の枕元で宿題をしたり、学校の話などをして、寝るまでの時間を過ごすのが常でした。

 その日も、祖母の枕元で本を読んでいて、いつの間にか眠ってしまったみたいでした。
「亜希ちゃん、起きて。亜希ちゃん」
 誰かが私の肩を揺すりました。私が寝ぼけまなこをこすりながら起き上がると、祖母が布団の側にちょこんと正座していました。目を閉じて何かに聞き入っているようでした。
「おばあちゃん、どうしたの?」
「亜希ちゃん、雪が降っているよ」
「あれっ、おばあちゃん、起き上がれるの? お母さんに知らせなくちゃ」
 しーっ。立ち上がろうとする私を手で制して、庭に耳を傾けながら、
「ほら、雪だよ。音がするもの」
 とつぶやきました。祖母の寝ている部屋は、内廊下を隔てて庭に面していました。
「えっ、それって聞こえるの?」

 私は直ぐさま廊下に出て、雨戸を少しだけそっと開けました。途端に肌をさすような冷気が部屋に流れ込んできて、私は思わず身震いしました。まだ降り始めたばかりらしく、部屋から漏れる明かりを受けたかざはなが、闇に沈んだ庭にきらきらと舞い落ちるのが見えました。本当だ!。でも、どんなに耳を澄ましても何の音もしませんでした。
「音、聞こえないよ」
「そこでは近すぎるんだよ。雨戸を閉めて、こっちへおいで」
 言われたとおり、祖母の隣に座りました。
「ほら、集中してごらん」
 祖母は、風に混じって舞い落ちる雪片が地面や凍結した雪面に当たる時、微かな音がすると言うんです。

 私は、息をひそめて耳をそばだてました。
 カサッ。
 確かに聞こえたような気がしました。祖母にそう告げると、
「そうかい。お前にも聞こえたのかい。そうかい、聞こえたかい」
 祖母の言葉は私にではなく、自分に言い聞かせたように思えました。
「さあ、明日は学校だろう。もうお休み」
 もう少し一緒に居たかったのですが、祖母に追い出されて仕方なく部屋に戻りました。
 翌朝のことです。私は、昨夜のことを確かめたくて、祖母の元に飛んで行きました。しかしそれは叶いませんでした。祖母は亡っていたからです。とても安らかな顔でした。


 ここまで話させるのに、私は大変な努力と忍耐を強いられた。と言うのも、女のまぶたはほぼ五分置きに落ちそうになるので、私はその度に揺り起こして、先をうながす必要があったからだ。
 また女の話が止まった。私は手を伸ばしかけたが、女は眠ったわけではなく、私のグラスを凝視していただけだった。
「私も、いいですか?」
 女が問う。私がうなずくと、バーテンダーは一瞬眉をひそめた。バーテンダーがショットグラスを女の前に置と、ごつんと思いのほか大きな音が響いた。
「失礼しました」
 バーテンダーは謝りながら、ウイスキーをなみなみと注いだ。女はグラスを掴むなり一気にのどに放り込んだ。ごほっ、ごほっ。案の定、女はむせたが、気付け薬にはなったようだ。

 女は流れるように話し出した。
「祖母は長く寝たきりでしたから、急に起き上がったり、しゃべったりできるはずがないんです。だからあの夜のことは、夢だったと思うこともありました。でもそれにしてはあまりにも鮮明すぎるんです。それに雪の音だって、もっとはっきり聞こえてもいいはずでしょう。だって夢なんですから。
 だから、私はこう思うことにしています。ほら、ロウソクの火って、消える寸前にぽっと一番明るく光るって言うでしょう。あれと同じで、祖母の命が尽きる前にいつせんして、私に奇跡を見せてくれたのだと……」

 女はここまで一気に喋ったが、そろそろお酒の効力も失われてきたようだ。
 私は大体知りたいことを聞くことができた。その時ジャケットの内ポケットに入れた携帯電話が震えた。素早く取り出す。メールだった。文面にさっと目を通すと、そそくさと仕舞った。
 まだ女の話は続いていた。
「……もう五十年以上前のことですが、今でもはっきりと覚えています。今年私は祖母の享年と同じになりました。もう一度聞いてみたいと、あれからずっと願って……」
 突然女の首がガクンと揺れた。次の瞬間、女は糸が切れた操り人形みたいにゴトンと頭からカウンターに崩れ落ち、そのまま寝息を立て始めた。

「大丈夫なんですか?」
「ええ、いつものことですから。後で家の人に電話して迎えに来てもらいます」
 私は、すっかり氷が溶けて、薄くなった水割りを、ぐいっと一息に飲み干した。
「この人は、素面しらふの時は無口で本当にいい人なんですけど、数年前に母親を亡くしてからでしょうか、酒が入ると先ほどみたいにだれかれなくたわいもない話を吹っ掛けては、酒をせびるようになりましてね。まあ静かに飲みたい人は露骨にいやな顔をされますが、相手にせず放っておけば直ぐに寝てしまいますから、私もはなから無視しています。
 いやあ、それにしてもあなたは辛抱強い御方だ。私が知る限りあなたが初めてですよ、ここまで付き合われた方は。多分あれでしまいだろうと思いますが……」
 店を出ると、走っている車は一台もなく、歩いている人の姿も見えなかった。白く塗りつぶされつつある街は静寂の中にあった。


 今日は朝から黒くどんよりとした雲が空を占めていた。未明に妹から母が緊急入院したと連絡を受けた私は、急遽午後からの予定を取り消して、昼過ぎの新幹線に乗るつもりだった。だが、突如降り出した雪で交通網が寸断され、私は否応なく足止めをらったのだった。
 小さな街だ。宿を当たったが、駅近くのホテルに空きはなく、辛うじて場末のビジネスホテルに部屋を取ることができた。妹に雪で帰れない旨連絡したが、部屋にじっと電話を待っていても気がくばかりで、気晴らしにとフロントで教えてくれたバーを訪ねたのだった。

 私は営業という仕事柄出張が多く、一年の約半分は日本中を回っている。そして夜になるとバーやスナックに足を運び、カウンター席でママ――できるだけ話し好きで年配の方がいい――と雑談しながら、『雪の音』に関する情報を拾っている。雪の音と死。一見それらには何の関係もないように思えるし、話自体も非現実的なものに聞こえる。殆どは又聞きの更に又聞きみたいな話ばかりだったが、日本各地――特に豪雪地域に多い――で同じような話があまた語られていることにはそれなりの意味があると、私は考えている。

 しかし先ほどのように『雪の音』を聞いたと言う人から直に話を聞けたのは、思いがけない収穫だった。
 私の母も雪国の出だ。子どもの頃、母から聞いたのもそんな類いの話だった。
 祖母が子供の頃のことだったそうだ。雪の音を聞いた翌日は、決まって村のどこかで葬式があったらしい。初めはただの偶然だと思っていたが、それが度重なってくると段々恐しくなった。でも事が事だけに、誰にも相談できずに長いこと悩んでいたらしい。親を送る年になって、やっと気持ちに折り合いを付けられようになったと笑ったそうだ。
 母がなぜそんな話をしたのか、私は長い間その理由を考えあぐねていた。やっとその答えを得た気がする。


 先ほどのメールは、病院で母に付き添っている妹からだった。今夜が山だと、医師に告げられたそうだ。
 ――今夜辺り、雪の音が聞こえるかも知れないな。
 祖母の能力は、母にではなく私に受け継がれた。私は唇をみしめながら、ホテルへ続く暗い道をゆっくり辿たどった。



よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。