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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】リスト (3)

3.

<平成二十六年七月十一日>

 山村美枝子の初七日の法要を無事終えた。

 坂下亜希子は夕食を用意して精一を呼びに来た。精一は廊下に腰を落としてじっと庭を見ていた。
「お父さん、夕食の準備ができたわよ」
「虫の知らせって、本当にあるんだな」
 山村精一がぽつりとこぼす。
「あの日は、庭の手入れをしていたんだ。ふと誰かに名前を呼ばれた気がした。多分あいつだ。俺をああいう風に呼ぶのはあいつだけなんだ。だけど見回してもあいつの姿はないんだ。気のせいだったかと思ったけど、それにしては声が明瞭に耳に残っていたんだよ。そしてなぜだか反射的に腕時計を見たんだ。三時五十八分を指していた」

 精一は、後になってその時のことを思い出すことがあったが、なぜあの時時計を見たのか理由を上手く説明できない。
「お父さん、夕食」
「忘れもしない、七月四日だ。五時をちょっと過ぎた頃かな。遅いなあって思っていたところへ電話が掛かってきたんだ。てっきりあいつからの残業の連絡だと思ったら、警察からだった。警察からの電話なんか初めてだから、別に俺が悪いことしたわけじゃないのに、妙にどぎまぎしてな」

「お父さん」
「あいつが事故に遭ったと言うんだ。病院からでは無く、なぜ警察から連絡があったのか不審に思ったが、それ以上深く考えなかった。そしたら、警察に来て、本人かどうか確認してほしいって言うんだ。意味が分からなくてなあ。直ぐに伺いますって返事したものの、情けないことに俺一人ではどうしていいか分からなくてな、お前に付いてきてもらって助かったよ」


 警察の霊安室に横たわる美枝子の頭には包帯が巻かれていたが、顔には額に少し擦った跡があるくらいで、表情も穏やかだった。寝ているのかと見まがうほどだった。
「おい、起きろ。帰るぞ」
 精一がそう声を掛けたほどだった。

 立ち会った担当者がしめやかに話し始めた。
「午後四時少し前だったそうです。歩道橋の階段の途中で、女性が苦悶の表情で、こう、お腹辺りを手で押さえて、身を捩るようにしたそうです……」
 そしてそのままバランスを崩して階段を転げ落ちたらしい。歩道橋には美枝子の他には誰もいなかった。たまたま通りかかった初老の男性が直ぐに救急車を呼び、美枝子は病院に運ばれたが、頭を強く打っておりそれが致命傷となった。
 男性はことの一部始終を目撃していて、警察で証言してくれたそうだ。さらに警察は、美枝子のハンドバッグにあった受診カードに記載された三田病院に電話して、彼女が激痛を伴う病気にかかっていたいたこと、そのため痛み止めを服用していたとの証言も得ていた。
「……以上から警察は事件性は無いと判断し、事故死として処理しました。お悔やみ申し上げます」
 彼は一礼して説明を終えた。


「お父さん!。ねえ、お父さん。聞いてる?」
 亜希子は目の前にいるはずの精一をやたらに遠くに感じた。亜希子の心がざわつく。先程から精一は、座ったままもう長いことぴくりとも動いていない。このまま放っておくとそのまま塑像そぞうにでもなってしまいそうな気がした。亜希子は先ほどより少し声を張った。
「お父さん!」
「ああ。聞いてるさ」
「お父さん、大丈夫?」
「ああ」
 返事はするものの、声に生気が全く感じられなかった。

「お父さん、ちゃんとご飯、食べてた?」
「心配するな。ちょっと疲れているだけだよ」
「それならいいけど」
 見るからに、いいわけがないのが分かる。が、あまりとやかく言うと直ぐへそが曲がるのを知っている。そうなったら面倒くさい。母は、よくこんな父と三十年以上も一緒に暮らしてきたものだと、今更ながらに感心する。

「なあ。母さんは、何であんな所へ行ったのかな?」
 精一には、美枝子が事故にった場所にいささかも心当たりがなかった。そこは勤務先だった篠田病院へ行く道筋からは大きく外れ、また三田病院とは真反対の方向だった。
「さあ。お母さん、どこへ行くとも言ってなかったの?」
「ああ。すぐそこのコンビニに行くにも、一々断っていたのになあ。肝心なことは黙っている。夫婦って何だろうな?」
 精一は亜希子に答えを求めていない。それがわかるから亜希子は黙っていた。

 初七日の翌朝。
「何もこんな日に行かなくても」
 亜希子が散歩に出ようとする精一をとがめるように言った。
 じゃあ、いつからだったらいい。精一は思わず口を吐きそうになる言葉を飲み込む。亜希子に当たっても仕方ない。頭では妻が死んだことは分かっても、心がそれを受け入れることができない限り、精一には時間を区切ることなどできはしない。
「日課だからな」
 精一はぼそりと言って、亜希子の視線を避けるように玄関を出る。
 ここで止めたらそれきりになることがわかる。生活のリズムを崩すと、二人で築き上げてきたものまで崩れる気がする。今となってはそれでも別に構わないのだが、「よく続いているわね」と褒めてくれた美枝子の言葉にまだ背中を押され続けている。

 一時間ほどの散歩から戻る。
「おーい」
 ――またやってしまった。
「ちょっと、待ってよ。今手が離せないの」
 美枝子はいつも「はーい」とエプロンで手を拭きながら小走りに顔を見せた。そんな姿が未だに目に焼き付いている。
 今は、亜希子の少し尖った声が返ってくるだけだ。
 このところ毎日のように亜希子は御三をやりに来る。朝早く来ては精一の一日分の食事を作り置きして一旦帰宅し、夫と子どもを送り出した後、時間があれば再び顔を出して掃除と洗濯と忙しい。

 主を失って閑散としていた台所から再び音が聞こえる。まな板を叩く音。蛇口からほとばしる水の音。何かをぐつぐつと煮る音。スリッパのれる音。当たり前だが美枝子のとは違う。
 亜希子の動きに連れて家の中の空気が動く。それに連れて色んな香りも運ばれてくる。煮物の匂い。洗濯物の匂い。それに亜希子からは良い香りがする。美枝子は看護婦という仕事柄香水は付けなかったが、同じ職業でも亜希子からは微かに香る。これも時代の変化なのだろうか。

「すまん」
 この頃、口癖のようにこの言葉が出る。有り難いと思う。いつまでもそれに甘えてばかりではいけないことも分かっている。だが、まだ妻のいない生活に心が慣れるよう努めるだけで精一杯だ。
「気にしないで。私が先に逝ったらお父さんのことよろしくねって、お母さんから頼まれたのよ」
 生前妻とそんな会話を交わしていたのかと、亜希子に対して嫉妬めいたものを覚える。
 ――亜希子は病気のことを知っていたのだろうか。
 精一はまだその事を亜希子に聞くことができずにいる。

 精一は何だか自分だけが置いてきぼりにされたみたいで悔しかったが、一方で知らされていたら多分平静ではいられなかっただろうと思う。『がん』といずれ来る『死』に心を侵されて、何もできないのに慌てふためいて、取り乱して周りをき乱すばかりだっただろうと思う。全てを背負しょい込んで支えてくれた亜希子がいなかったら、きちんと美枝子を送ることができただろうか、精一には自信がなかった。
 そう思うと自然とその言葉が精一の口から出る。

「すまんな」
「お父さんは、『ありがとう』も『ごめん』も『すまん』なのね」
 亜希子は呆れたように言う。精一が黙っていると、
「お母さんに、その言葉、掛けてあげたことあるの?」
 と続ける。精一は言葉に詰まる。そう問われれば、あまり記憶に無い。黙って首を横に振る。
「言えば、お母さん、きっと喜んだはずよ」
 そうだな。分かっていても、照れが先に立った。

「いいのよ、分かってるから。お父さん、ああいうな人だから、心で思っていても中々口に出して言えないのよ」
 多分、美枝子は不満げな顔をする亜希子にそう言って、こともなげに笑ったことだろう。いつもその言葉に甘え続けていた自分が口惜しいと精一は思う。
 ああすればよかった、こうすればよかった。あそこへも連れて行けばよかった。
 償う相手がいないから、後悔には切りがない。それは埋み火となって、いつまでも精一の中でくすぶり続ける。

「すまん」
 また精一の口を吐いた。

<続く>


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