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【短編】サンダル

(2,802文字)

 私は裸足で砂浜を歩くのが好き。波打ち際は砂が海水を含んで重い。だから、そこから少し離れて乾いた砂の上を歩く。空の青を映した波面に、砕けた太陽の欠片かけらが貼り付いている。
するぞ」
「大丈夫よ」
 九月も末とはいえ、晴れた日の午後はまだ暑く、少し汗ばんだ足にくっついた砂粒がサンダルとの間でれて痛い。私はサンダルを脱いで、それぞれを両手の人差し指に引っ掛け肩辺りでぶらぶらさせながら、少しつま先立って歩く。焼けた砂が足の裏を焦がすのが心地よい。踏み込むたびに指の間から湧き出した砂が足の甲で踊る。
「素足だと怪我するぞ」
 夫は声が届かなかったと思ったのか、両手でメガホンを作って、また叫んでいる。
「大丈夫だってば」
 私も手を振りながら、負けずに声を張り上げる。しかしそれは風に飛ばされ、波にき消されてしまう。
 ――分かってるわよ。
 砂浜には、心ない誰かが投げ捨てたガラス瓶の破片が埋もれていたりする。それに、きれいに見える貝殻も欠けたばかりの断面は案外鋭いことも。

 夫は堤防に腰を下ろして海を見ている。声を投げただけで、私を追って来る気はないようだ。私の伴は足元に短く伸びた黒い影だけ。夫の傍からここまで、少し蛇行した跡が続いている。足跡は私が離れた途端に輪郭を崩して、ただのくぼみになる。そして後数時間もすればしおと風とがきれいさっぱり消し去ってしまう。それを寂しく思う自分がいて、それを面白がる自分がいる。
 ――サンダルは違う色にすれば良かったわね。
 今日の私は、帽子も、ブラウスも、スカートも白。黒いベルトがアクセントだけど、海辺だったらサンダルはもう少し色味のあるものにしてもよかったかも。
 私は、夏の服装は白を基調にすると決めている。流行は意識はするが、流されたりはしたくない。同じ白といっても微妙に色相や彩度が異なるし、生地の材質や織り方で色の感じに違いが出る。それらの組み合わせが変化を生む。それを考えるのが楽しい。今日のブラウスはかすかにベージュがかったせんのもので、光沢がある。ひざ下までのスカートは木綿地のオフホワイト。
 ヒューッ。その時、風が変わった。スカートの裾をひるがえしたそれは、広い縁の帽子をも飛ばそうとする。あっ。私は反射的に右手でスカートを、左手で帽子を押さえた。コツン。左手に提げたサンダルのかかとの硬い部分が、がいこつにぶつかって乾いた音を立てた。帽子で少しは衝撃がやわらいだとはいえ痛い。
「大丈夫か」
 私の声も、サンダルがぶつかった音も聞こえたはずはないのに、夫の笑いを含んだ声だけが届く。私はその声の方向に、きっとばかり視線の矢を放つ。

 今日のドライブを提案したのは私だ。
「どこがいい? 行きたい所、ある?」
「そうね」
 私は思案する。
 ――あなたが初めて私の唇を奪った湖畔でもいいし、あなたが私を押し倒そうとした夜の公園でもいいわよ。
 結婚して四年。二人だけの生活は、お互いのリズムでうつろぎ、ややもすれば単調に流れがちだ。この頃はときめくことも少なくなってきていた。
 私は、ここのところ体の具合が思わしくなく、酷い時は一日中横になっていたこともあった。大好きなお酒も、このところ一滴も口にしていない。
 やっと体調が回復して、私は気晴らしと運動を兼ねて街に出た。歩きながら空を仰いだ途端、ビルに四辺をそぎ落とされて、そのあまりの狭さに息が詰まりそうになった。
 ――どこまでも広い、大きな空が見たい。
「そう、久しぶりに海がいいわね。よーし、海に行くわよ」
 私は夫の返事を待たずに行き先を決めた。夫はそれに合わせて、休憩を挟むほど遠くでもなく、CDが終わる前に着くほど近くでもない、ほどよい距離にある海岸を選んだ。
「砂浜もあるぞ」
 夫が付け加える。

 思い返してみると、夫と一緒に海に行ったのは結婚前に一度きり。
 季節は今と同じくらいの頃。土曜日だった。彼は私を海へのドライブに誘った。付き合い始めて二ヶ月ほど経った頃のこと。その帰りに、ちょっと喫茶店にでも寄る感じで、私を実家に連れて行ったのだった。
 彼の実家は漁港のある小さな町だと聞いてはいたが、まさかいきなり訪れることになるとは夢にも思っていなかった。心の準備ができていない。あらがう間もなく着いてしまった。ガチガチに緊張していた私を、彼のご両親は暖かく迎えてくれた。
「本気で結婚したいと考えている人だ」
 彼はご両親に紹介した。突然の告白に、私は驚きと嬉しさで涙が止まらなかった。
 ご両親は私を気に入ってくれたらしく、夕食を一緒にと勧められた。お酒も入って、話も弾んだ。結局その日は家に泊まらせてもらうことになった。夫は酔い覚ましにと、私を浜辺に誘った。そして砂浜で、星空の下でのプロポーズされた。彼なりに精一杯ロマンチックな場面を考えたのだろう。嬉しかった。だが順序が逆だったら、それこそ一生ものの感動があったはずなのに。
 そういう時こそ、今回のドライブコースを選ぶ時のような細かい気配りがあればと思う。夫は相変わらず女心にうとい。
 いや、案外それも夫の思惑通りだったのかも知れない。なぜなら私はその時、極度の緊張からの弛緩状態にあり、なおかつ酔いも加わって、何の躊躇ためらいもなく求婚を受けたのだから。

「もうすぐ雨になるぞ」
 夫が呼んでいる。私は右手を高く上げて了解の意を伝えた。
 夫は風がはらむ湿度や温度の加減で天気が分かる。義父は今でこそ好々爺こうこうやだが、かつては荒海をも恐れぬ漁師だった。義父は一人息子に跡を継がせず会社員にしたが、夫の体には隅々までしっかりと海が染み付いている。
 先ほどより波打ち際が奥まっていた。すぐさま足の砂を手で払いサンダルを履く。もうしばらくはサンダルをくこともないだろう。私はきびすを返した。

 にわかに太陽が雲に隠れて、車に乗り込む頃には夫の言葉通り雨がぱらつき出した。ワイパーが、玉になり出した雨粒を払う。
「ねえ、久しぶりに、お義父さんのところ、寄ってみない?」
 私は、さもたった今思いついたかのように提案する。
「そうだな」
 今日、夫が伊豆半島沿いの海を選ぶのは、初めから想定内。ここから実家まで、半島を横断すれば半時間ほどで行ける。その積りで、私は着替えをバッグに詰め、出掛け前にこっそり車のトランクに運び込んでおいたのだ。
 今から向かえば夕方には着く。この天候では義父は早仕舞いして、既に飲み始めているかも知れない。
 もう二年ほど顔を出していない。行けば直ぐに酒盛りが始まるだろう。その後、すっかり出来上がった夫を浜辺に誘い、そこで一気に酔いを覚ましてやる積もり。
 来年には家族が一人増えるわよって。

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