「何のために付き合ってるのかわからない」

付き合って3ヶ月が過ぎた。彼は忙しく、ADHD的な特性もあって連絡不精で、必要なとき以外基本連絡はなく、返信も遅い。1,2週間に一度会っているが、デートは月1くらいでしかできない。彼はあまり好きとか可愛いとかいかにも甘い言葉を言わないし、照れ屋だから、話していても友達みたいな感じだ。だから付き合ってる意味あるのかなと思ったこともあった。付き合ってる意味とは何なのか。

友達に「恋愛に関しても、何においても高みを目指す意識がすごいというか、ストイックだよね」と言われた。確かに私は人間関係において特に目的意識が強いのかもしれない。なぜなら、私にとって人間関係の維持は体質的にかかるコストが比較的莫大で、かつ体感するリターンも大きいからである。そのような営みにおいて、「ただなんとなく続ける」ことは性に合わない。基本的に私が人間と接する理由とは、場を盛り上げたり、相手がよい気分になる言葉をかけるなど、相手の要求に応えてあげるための利他行為か、相手をより理解して、もしくは相手を通して自分のことをより理解し、この世界への造詣を深めるための利己行為、そのどちらかである。何か誘いが来て、自分がそのどちらかを満たすことができると感じれば、誘いに応じる。会うと決めたならば、より良い結果を残したいと思うから、利他モードなら盛り上げるためにフックとなる小ボケやエピソードトークも考えて行くし、後者なら相手の話を引き出そうと自分の情報は赤裸々に開示する。確かにストイックかもしれない。
だが、私にとっての恋人とは、それに加えさらに複雑な存在であるらしい。

彼氏に対して根源から求めているもの。
心理的「安全基地」を持てずに思春期を過ごした私は、彼氏という最も親密な相手に対して「理想の安全基地像」を、ひいては「理想の愛」を体現してくれることを願っているのだ。「理想の愛」さえ実現されれば、人間の根源的孤独も、この世に満ちる苦難も全てが解決するのだという出どころ不明の幻想を、深いレベルの深層心理で抱いている。やはりそれが、自他境界線をなくしてしまいたい、相手とひとつになりたい、という碇シンジ的な、自己破壊的にロマンティックな欲求が強い所以なのだろう。この一連の欲望は、エヴァからもわかる通り、別に愛着障害でなくともきわめて普遍的なものである気がするが、友人に対しては寛容にいられるのに、恋人に対してはさまざまな面で不寛容になってしまう原因はやはりここだ。たったひとりしかいない恋人に、人生スケールでの希望を託してしまう。多くの人にとって、恋愛が他では経験できないほどの情緒体験をもたらすことからも、もはやこれは私個人ではなく、ヒトの精神性そのもののような気がする。

つまりこのような、人生のゲームチェンジャーとなりうるレベルの情緒体験をもたらすものこそが愛である、という前提があり、そうでないのならば、「付き合ってる意味あるのかな?」である。
ただし、以前の私ではこのかけがえのない情緒体験について、長期的視点が欠けており、きわめて短期的な視点でしか見れていなかった。私は多動すぎたのだ。5年、10年、20年と、人生の中で長い時間を誰かと過ごす中でしか生まれない情緒体験もきっとあるのだろうということに、最近やっと感覚的な理解が追いついてきた感じがある。短期的に見ればそれは刺激のうすいもので、多動人間には慣れないだろうが、他の人はもう少し長いスパンで恋愛と向き合っているということを彼が教えてくれた。付き合う前からなんとなく、彼からそれを教わりたいと思っていた。実際に教わることができたので、私はこの関係において目的を果たすことができているのだ。私はここまでの、過去の恋愛に比べたらそれほど劇的ではない情緒体験にしかし、満足しているのだろう。それは幻想から離れ、とても現実に沿った、だがあたたかいものであった。

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