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【社会自動車デザイン論】正しいデザイン、ふさわしいデザイン 〜貴様はそんな立場か〜

目次
【訂正と本記事について】貴様はそんな立場か
社会自動車デザイン論???
ステータスシンボルとしての脱却
新しい尺度、それは愛の保管計画
編集後記

【訂正と本記事について】貴様はそんな立場か
 先日のメルセデスの回で、次回予告にセダンのデザインのトレンド/ダイハツタントの功績と併記しました。タントは先出し済み。セダンの件も、もちろんトレンドを書くつもりで分析を進めていましたが、ふと私の過去の上司の姿が頭に浮かび、冷静になって、トレンドを語るとほざいた私自身を恥ずかしく思いました。なのでセダンのー。。は一旦中止して本文をまとめています。すみません。
 彼は私が尊敬する人の一人で、我々が練り上げた設計思想や試験プランの抜けや弱さを、瞬時の反芻を終えて指摘してくる強者でした。ただその殺陣振る舞いは鮮やかで、ドラマの中の公廷で鮮やかに立証する弁護士ごとく圧巻のクライマックス。鍛錬されたしなやかな思考力から次々に紡がれる言葉群は確かな知見に支えられた骨太なグルーヴ。さしずめ会議室を揺らすジプシーキングスでした。ボーラレ!!! ー 話がよくわかりませんね。ごめんなさい。つまりそんな彼が頭に浮かんで言ったのです、『君はトレンドの意味は腹落ちしているのか。トレンドを語れるだけの客観性を伴った実証を多く示して、かつ支持されてきているのか』と。ごもっとも(これは上司に失礼な反応だけど、私の脳内上司なのでご愛嬌を)。
トレンドは訳すると時流。2、3年前の事象の流れを汲む今とすぐ未来の観測結果。得体の知れない個人が勝手に垂れ流している自己満の記事がトレンドを語るとは、寒いとか、ダサいとかで嗤われる前にそもそも次元が違うのである。そんな立場か。じゃあ。。“マイ”トレンドだったらいいのかな。みうらじゅんのマイブーム的に。いや、だめだろう。
誰が己の過去から紡ぐ嗜好のストーリを知りたいのだ。グルーヴを乱してはいけない。

 というわけで、まずは対象はグッとしぼってトヨタのセダンのデザインの傾向を追ってみます。自分ができる範囲に収めます。乞うご期待です。
 いやー、脳内上司には感謝です。毎度重要な局面には頭の中に現れては、頭蓋骨の内側の脳天を直接スコーンと撃ち抜くような衝撃を喰らわします。もはや麻薬。やったことないけど。今回は業務ではなく、noteの編集中にお目(?)にかかるとは思ってませんでした。お陰で自己陶酔プンプンの読者の誰も得しないトレンド露出を阻止できました。ありがとうございます。

社会自動車デザイン論???
 彼に教わったのは設計者として原理原則をこだわること。自分の立ち位置を明確にすること。これら2つです。具体的に教わったわけではないのですが、めくりめくグルーヴの中で、団地で育った私の雑草魂が何クソと踏ん張って感じ取れたのはこの2つ。物を作る上で、設計者が物理や数学を応用する。つまり原理原則を実践するのは絶対ですが、それを突き詰めてしまうと研究者になってしまう。実績のある関係業者と互いの責任分担を確認した上で、期限内に物を作る設計者の立ち振る舞いを適切に演じなさいというのが学びでした。
 じゃあ私がデザインを語るというのはなんなのだろうか。私がデザインを語る意義を形容するならば、社会自動車デザイン論の展開としようと思います。これは石黒圭さんの著書『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門 (光文社新書)』で書かれている社会言語学から影響を受けています。

抜粋:理論言語学が「正しさ」の言語学だとするならば、社会言語学は「ふさわしさ」の言語学です。ー その場の状況などによって「ふさわしさ」は変わってきます。 ー 「ふさわしさ」を決める社会的なルールは、文法のような正しいか正しくないかのルールではなく、話し手のアイデンティティや話し手と聞き手の関係、その場の状況によって変化するゆるやかなルールなのです。

 自動車のデザインにおける「正しさ」はそれを設計したメーカーに属します。トヨタならトヨタの理念を持った、ベース骨格や製造能力といった制約との妥協点に当てたモデルは正しい車両。併せて「正しいデザイン」とも言えます。また私は設計者であり、外装デザイナーではない分際が正しさを語るのは危険です。
 対してふさわしいデザインとはなにか。もちろんメーカーも市場調査をしているので、一方的なメーカーの都合を押し付けられているわけではありません。ただそれでも実際にモーターショーや広告で見たり、聞いて納得したにも関わらす、街中で見た場合しっくり来ていないと思うこともあったことでしょう。それが実は「ふさわしさ」に関係しているのではと思っています。車が市場に投入されて、街や人を巻き込んだ上で語るのが「ふさわしいデザイン」。前述の通り車はメーカーが相当な労力をかけて、複雑な設計を経て誕生しているのは周知されています。また個人が複数所有してじっくりその存在を対比させて考察することも困難です。もしできたとしてもそれはふさわしさが限りなく限定されます。行き着くのは知的な富裕層のうんちく(たぶん高級ディーラーで営業マンに聞かせるんでしょうね)。つまり現状は一般人がその多くを語らせる事は躊躇させます。一方で、洋服も同様に複雑な工程を経て手に渡りますが、複数持つこと、身につけることや自分で手入れをすることから、多角的に観察でき、個人で自由に物申すことができます。

ステータスシンボルとしての脱却
 私はこのnoteの場で、「あなたにとってふさわしいくるまのデザインとは?」を問いていきたいと思います。正直今の車の性能は、普通に使う場合にはどのメーカも車の性格は違えど合格点に入ります。じゃあデザインはどうか。車が一般人にとっては昔ほどステータスシンボルの機能を果たさない今、デザインによる訴求力の重要度は、車をまずみてもらうきっかけとして、他の自動車の持つ魅力が停滞する中で相対的に浮上してきます。(家族を持ったらミニバンを買う傾向もある種の擬態とステータスシンボル)
今までは車の優れた機能や性能を視覚的に表現すべくデザインがあり、個人の向上する消費傾向とうまく連動してここまで来ました。行きたいところがあるから車を買うのではなく、車が持つ可能性と自身の社会への参画度合いを表現する証を買っていたと言えるでしょう。まだ首都圏外では生活に自動車は必須ですが、『せっかく車を買うなら、、、』という上乗せする気持ちは少なからずまだあると思います。そこにふさわしいデザインの概念を持ち込んで吟味してほしいのです。車を生活に必須にしていない人にも言えますが、燃費やカテゴリーじゃない、あなたのデザイン観点を持ってクルマをみてほしいと願っています。

新しい尺度、それは愛の保管計画
 では私が具体的に何を表現するのか。ですが。10年車業界に設計として携わった経験から、車の魅力は走りだけではない人の生活と共に進化した、味わい深い一面があると断言できます。私は新しい尺度を提案して、皆さんにも楽しんでもらえたらうれしいと思っています。既出の初代タントの記事はその一つです。タントの性能や走りなんていっさい出していません。なんでもない(褒め言葉)軽乗用車の一つの可能性を掘り起こして新しい視点で明文化してみました。まだ初代タントを乗っている方、ご自身に『しっくり』きていてまだなかなか手放せないかもしれませんよね。そんな方の言葉にできない愛車の魅力を、ことばで具体化する例を差し出して、自分が好むデザインの追求を進めていってほしいと思います。それはきっと単純な造形の美しさだけではないはずです。

 今日本で車を長く乗ると税金が上がってしまいますよね。乗り続ける場合は、買い替え出費を避けている場合の他に、『なんか自分にいい』という理由もあると思います。車検で借りた最新型よりも、戻ってきた愛車に慣れ以上の温かい感情は込み上げた事はありませんか。社会自動車デザイン論は自動車の個としての存在ではなく、車が街に存在する事を前提に、それと触れる人間が抱く印象や感情を壊れないように保管するぴったりの容器でありたいと思います。
 環境問題や自動運転が代表されるように、自動車のそのものの存在が揺るがされています。けれど皆さんが車に愛を持って接した時代は大切な文化です。わたしも小さい頃から車が大好きでした。特に目線(ライト)が低く、優しい表情が多い平成初期のホンダ車(年齢が知れる。。)とは仲良く会話できていた記憶があります(!!????)。このnoteは、あなた基準で、あなた自体の唯一の車への愛の形を再認識してもらいたいと思っております。

編集後記
 社会自動車デザイン論をGoogleで検索しても見つかりませんでした。ひとまず訴訟は受けなくて済みますね(?)。あ、例の上司ですが、今も現役でドスの効いたグルーヴを、ノリの悪い日本人エンジニアに爆音で効かせているでしょう。私より下の世代は、実機評価(実際にもので試験をする)の経験を得られる場が少なっています。分業と効率化を悪く言いませんが、現場の当たり前が通用しなくなってきているのは事実です。最初からタッチパネルが主流だった若い世代が、物がどう壊れるのか体感を持って成長してきているのか不安になるこの頃の、おじさん入門者です。そんな子達が持つ若いグルーヴは、我々のグルーヴとは逆位相で打ち消されないかしら。。。

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