黒住教大阪大教会所

お参り有り難うございます。 天照大御神を主祭神とする大阪の“黒住教”(黒住神道)no…

黒住教大阪大教会所

お参り有り難うございます。 天照大御神を主祭神とする大阪の“黒住教”(黒住神道)noteです。 ほぼ記録用として活用させていただきますが、御一読下されば幸甚です。

記事一覧

時尾宗道高弟講録の読解【八】

無事安穏(何事もなく、世の中や暮らしが穏やかで安らかな様子)は常に人が神仏に祈るところである。そうであるから今日が何事もなく無事に過ごせた人は、念願成就の場にし…

時尾宗道高弟講録の読解【六】

八、心を落ち着け静まるようにコントロールして、自分の心(魂)を痛めないようにするのは天照大御神様の御神勅にして、御道(黒住教)の眼目なのです。ゆえに宗忠様が大切…

時尾宗道高弟講録読解【七】

九、自分の見栄やプライドを低くして、心の純度や志(目標)は高く持つ、これが物事の流れであり筋道です。 ところが今どきの人の多くは、見栄やプライドばかり高く、心の…

時尾宗道高弟講録の読解【5】

六、大空の月の恵みと知らずして 露はおのれが光とや見ん これは、思慮が不十分な歌だが、今どきの心がけが浅い人の多くは、掛けまくも畏き日の大御神様の大御徳をうけて…

時尾宗道高弟講録の読解【4】

五、宗忠様がかつて尺所(岡山県和気郡和気町)より帰られる道中に、河本村の森丈八郎宅へお立ち寄りなされようとして砂川を渡られることがあった。その際には雨が降った後…

時尾宗道高弟講録の読解【3】

三、世の人々のなさる行為は、皆ことごとく生(命)を養い育てることでないようなことはありません。生きとし生けるもの、いずれか命を惜しまざりけると貫之も言われたよう…

時尾宗道高弟講録の読解【2】

二、ある時、一首の下手な歌を詠んでみたので宗忠様の御前に出してみたことがある。その歌が 「誠ちょう実はいつしかにうつせ貝 むなしくなりぬ世の中ぞうし」 宗忠様は…

時尾宗道高弟講録の読解【1】

一、天地自然なる心というのは得ようとしても難しく、学問の道においても人それぞれの癖があるものです。だからこそ宗忠様も「癖の無いのは天照大御神一神のみ。そのほかの…

時尾宗道高弟講録の読解【八】

時尾宗道高弟講録の読解【八】

無事安穏(何事もなく、世の中や暮らしが穏やかで安らかな様子)は常に人が神仏に祈るところである。そうであるから今日が何事もなく無事に過ごせた人は、念願成就の場にして有り難く感じて、めでたいことであろう。

しかしながら、無事にいては無事を忘れそれが当たり前のこととなってしまい、たまたま病気がおこればその病気を忘れることができない。普通の生活では手足が動くのも当たり前のように考えてしまっているが、病に

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時尾宗道高弟講録の読解【六】

時尾宗道高弟講録の読解【六】

八、心を落ち着け静まるようにコントロールして、自分の心(魂)を痛めないようにするのは天照大御神様の御神勅にして、御道(黒住教)の眼目なのです。ゆえに宗忠様が大切なところとして多くの人々をお導きなされたところですから、一瞬もここを離れてはいけない。心にとどめ守っていかなければなりません。

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参考文献:「高弟歌文集」黒住教日新社 発行

時尾宗道高弟講録読解【七】

時尾宗道高弟講録読解【七】

九、自分の見栄やプライドを低くして、心の純度や志(目標)は高く持つ、これが物事の流れであり筋道です。 ところが今どきの人の多くは、見栄やプライドばかり高く、心の純度は低い。これは本来の筋道ではない。この不順の身でいながら自らを省みず成功を願う。

このようなことで、どうして願いが成就するのだろうか。

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参考文献:「高弟歌文集」黒住教日新社 発行

時尾宗道高弟講録の読解【5】

時尾宗道高弟講録の読解【5】

六、大空の月の恵みと知らずして 露はおのれが光とや見ん

これは、思慮が不十分な歌だが、今どきの心がけが浅い人の多くは、掛けまくも畏き日の大御神様の大御徳をうけてこそ、私や人々は生きていられ、また暖まりがあるということがどういうことかを理解もせず、やはり己が生きて、己だけが働いているとだけ思っている愚かな心を読めるものだ。

また、

誰もみな天照る神の神がかり 神がかれと知る人ぞ神

この意味は

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時尾宗道高弟講録の読解【4】

時尾宗道高弟講録の読解【4】

五、宗忠様がかつて尺所(岡山県和気郡和気町)より帰られる道中に、河本村の森丈八郎宅へお立ち寄りなされようとして砂川を渡られることがあった。その際には雨が降った後だったので、砂川が洪水となり水位がまだ下がっておらず、板を多く並べて渡し橋としていた。これを渡られる時、いつもと違って、水かさが多いので、ふと御心を動かしてしまわれたようで、その日の丈八郎宅での御講釈に

「さて、今日当家へ参りがけ砂川にお

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時尾宗道高弟講録の読解【3】

時尾宗道高弟講録の読解【3】

三、世の人々のなさる行為は、皆ことごとく生(命)を養い育てることでないようなことはありません。生きとし生けるもの、いずれか命を惜しまざりけると貫之も言われたように、神道はもとより、いずれの道々も、また天下を治められているまつりごとも、皆々が安心して生きていけるようにするためのものである。

ところが、心がけが悪い人は普段でも健康に気をつけることがなく、自分自身で生きることをダメにしてしまい、助けを

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時尾宗道高弟講録の読解【2】

時尾宗道高弟講録の読解【2】

二、ある時、一首の下手な歌を詠んでみたので宗忠様の御前に出してみたことがある。その歌が

「誠ちょう実はいつしかにうつせ貝 むなしくなりぬ世の中ぞうし」

宗忠様はじっくりとご覧になられた後、私の考えはこの歌とは異なると

「有り難やかかるめでたき世に出でて 楽しみ暮らす身こそ安けれ」

と仰せになられた。御歌の心は、世の中の楽しみをお与えになるとの神様のお考えがある。我らが世の中を嘆く愚かな心と

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時尾宗道高弟講録の読解【1】

時尾宗道高弟講録の読解【1】

一、天地自然なる心というのは得ようとしても難しく、学問の道においても人それぞれの癖があるものです。だからこそ宗忠様も「癖の無いのは天照大御神一神のみ。そのほかの神たちには癖はある」と仰られています。

それゆえ、癖のつかないように、天照大御神様を目当てにしてその学びに達すれば、大御神一体の初めにかえり、天地自然なる大御心を得ることが出来るのです。

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参考文献:「高弟歌文集」

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