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時尾宗道高弟講録の読解【八】

無事安穏(何事もなく、世の中や暮らしが穏やかで安らかな様子)は常に人が神仏に祈るところである。そうであるから今日が何事もなく無事に過ごせた人は、念願成就の場にして有り難く感じて、めでたいことであろう。

しかしながら、無事にいては無事を忘れそれが当たり前のこととなってしまい、たまたま病気がおこればその病気を忘れることができない。普通の生活では手足が動くのも当たり前のように考えてしまっているが、病に伏せては手足の動かしにくさを覚える。普段のめでたいことをめでたいこととせずに、また当たり前に出来ることの有り難さを有り難いと感じることもせず、そうであるから、当たり前にできていたことが突然出来なくなった時に大いに苦しがってしまう。これはすなわち器量が小さい人の常である。

至らぬ一首

おりおりはかかる悩みのありてこそ 事なき常の有りがたきをぞ知れ

宗忠さまの御七ヵ条にも「日々有りがたきことを取り外すこと 恐るべし恐るべし」とあるゆえに、普段の生活の中の有り難いことを取り外してしまうことは、常の道ではない。常の道でなければ外道なのです。二六時中油断してはなりません。恐るべし恐るべし。

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参考文献:「高弟歌文集」黒住教日新社 発行