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『空飛ぶたまごと異世界ピアノオルガン♬アンサンブル』 第28話 曲の続きを探して

 あれから、一週間ほどが過ぎた。

 リーネルトさんが鏡を隠したのは、たぶん教会の応接室の床下だ。
 あらゆる音が、床板や壁にさえぎられ、にぶく、途切れ途切れにしか聞こえない。

 礼拝堂のバルコニーにあるオルガンがどうなったのか――わずかながら伝えてくる音さえも、二日ほどで完全に消えてしまった。
 今はもう、牧師さんが行う礼拝も、人の気配すら聞こえてこない。

 礼拝もないなんて……。この教会は、敬虔けいけんな人々の心の寄りどころだったはずなのに。

 オルガンとオルガニストを、理不尽に奪われた――
 牧師さんを始め、すべての人たちがここに来られないほど消沈しょうちんしてしまっても、不思議はないのかもしれない。

 わたしはまだ、コンサートルームに置かれたままの化粧台ドレッサーの鏡の前で、ほとんどの時間を過ごしている。
 オンライン講義を多めにとっていたのが幸いし、学業の方は何とかなりそうだった。
 食事も睡眠も、大学の課題やオンライン受講も、すべてを鏡から五メートル以内の範囲で行う生活。はたから見れば、立派な引きこもりだ。

 でも、鏡から離れられない。ほんの少しでも情報を得られないかと、真っ暗な鏡面を見ながら待ち続けている。
 映画で見る、盗聴システムの前に座り続ける捜査員や情報員は、こんな心境なんだろうか。

 いつかは、もとの生活に戻らなければならない。その時の自分がどんな状態なのか、正直、考えるのが怖い。
 終わらない暗闇に絶望しているのか。すべてをあきらめてしまっているのか。それとも、自衛のために「なかったこと」にしてしまうのか。
 今は、「まだその時のことは考えなくていい」という根拠のない暗示だけが、わたしに小さな安堵あんどをもたらしてくれる。

 いづ兄は、わたしの入浴時間や睡眠時間には必ず鏡のそばにいてくれる。食事も一緒にとってくれる。わたしの体調を気遣ってくれてるのがよくわかるので、ちょっと申し訳ない。
 わたしが鏡番をしている時は、いつの間にか外出してることもあるけれど、わたしからは特に詮索せんさくしていない。買い物などの用事で外に出なければいけないはずだし、いづ兄にも少しは息抜きの時間が必要だ。

 引きこもり生活を続けながらも、私の中には常に音楽が流れている。

 教会全体を揺るがすほどの、衝撃的なオルガンの響き。まるで大規模なオーケストラを聴いているような、多彩に輝く音色の数々。
 これ以上は望めないほど考え抜かれたレジストレーションと音量で、ピアノを最後まで見事に支え導いた、あの感動的な協演コラボレーション
 そして、最後まで奏されなかった、抒情的じょじょうてきなアンコール――

 レポートを書きながら、ぼーっとしてしまったらしい。
 気がつくと、温玉おんたまちゃんがコツコツと鏡をノックしていた。

「温玉ちゃん?」

 鏡のそばに寄って、初めて気づいた。
 音楽だ。
 わたしがたった今脳内で流していたあの曲が、伸びやかな弦で奏でられている。

 タイトル不明のアンコール曲。この曲をヴァイオリンで弾けるのは、彼しかいない。

「リーネルトさん!」

 * * *

 叫んでも、音楽はやまない。
 どこからか、かすかに流れてくるヴァイオリン。わたしは自分の声を届けるのを諦めて、そのまま耳を澄ました。

 音量が小さくてもわかる。滑らかでミスのない運指うんしに、弦の一番響く場所を熟知している運弓ボーイング
 そして、曲の特性と魅力を最大限に活かそうとする演奏解釈――

 演奏は、途中で止まってしまった。
 しばらくすると、また最初から弾き直し始めた。注意深く聴いていると、また同じ箇所でストップしてしまう。

 まさに、レヴィンさんが弾いていたところまで。リーネルトさんは、これほど大切に弾いている曲を、最後まで知らないんだ。
 つまり、この曲の作曲者は――

 わたしはいても立ってもいられなくなって、久しぶりに鏡のそばのグランドピアノの蓋を開けた。
 椅子に座り、たった今聴いたばかりの旋律を右手の指で辿たどる。左手で、そっと和音コードを添えていく。

 曲が終わる前に、足音とドアを開ける音が響き、それ以外の音もいくつか重なって。

 約十日ぶりだろうか。
 闇が、晴れた。
 急激に眩しい光が差し込み、思わず目を細めると、光の中にリーネルトさんがいた。

 * * *

『……リネさん』

 十日ぶりに見るリーネルトさんは、以前のリーネルトさんではなかった。
 前よりも低い、かすれた声。
 肌は青白く、光をまとってキラキラと輝いていた髪でさえ、今はくすんだ色に見える。
 疲れ切った目元と、眉間に刻まれたしわが、彼が過ごした十日間を物語っていた。

『こんな所に閉じ込めたままで、すみませんでした。先生に、何かあったらすぐここに隠すように言われていたので……』
「リーネルトさん、大丈夫でしたか? リーネルトさんに危険なことは起きていませんか?」
『僕は大丈夫です』

 精神面が大丈夫じゃないことくらいは想像できる。でも、今のわたしにはどんな言葉をかければいいのかわからない。気休めの言葉さえ思いつかない。
 わたしよりもずっと前から、レヴィンさんを知り、尊敬し、その音楽を学んできた人。神様が彼から奪ったものは、あまりにも大きい。

「そうだ、オルガン! リーネルトさん、オルガンはどうなってました?」
『……もうすっかり、無くなってました』

 やっぱり、あの時いづ兄と聞いた音は、オルガンを運び出す音だったんだ。
 問題は、誰がどのような形で運び出し、その後どう扱われるかだ。

「リーネルトさん! 兄が言うには、オルガンを運び出したのは工房の人たちで、再度組み立てられるように分解したんじゃないかって……。何か心当たりはありませんか? 工房の噂か何か、聞いていませんか?」
『…………』

 リーネルトさんは、しばらくうつむいた後、

『僕は何も……。お役に立てなくてすみません』

と、消え入るようにつぶやいた。

 オルガンが無事かもしれないという可能性を耳にしても、彼の瞳に以前のような光が輝いたのはほんの一瞬だった。
 オルガンが無事でも、先生が無事でなければ意味がない。彼の人生を変えたのは、「オルガン」ではなく、「レヴィンさんが弾くオルガン」なのだ。

『……今日は、曲の続きを探しに来たんです。あの曲は、グライスフェルト先生の作曲ですが、最後まで聴くことができなかったので……。譜面なりメモなり、どこかに残っていないかと』

 やっぱり、レヴィンさんが作った曲だったんだ。

『見つからなかったので、ついでに譜面整理をしてました。あの人、自分で整理できないくせに、嬉しそうに次から次へと新しいのを買って持ってくるんですよ。譜面代がかさんで金欠だって言いながら、僕の仕事をどんどん増やして』

 彼の目元に、ほんの少し、寂しそうな笑みが浮かぶ。

『……でも、こんなことになるなら、一生譜面整理係でも良かった……』

 リーネルトさん……。

 肩を震わせ、こぶしを目にあてて小さな嗚咽おえつを漏らす男の子に、わたしはかけるべき言葉を持ち合わせていない。

 いづ兄が知っている限りでは、警察に連行され、拘置所に入れられた人間は二度と元の場所へ戻ってこないと言われている。正確に言うと、戻ってきた人間がいるのかどうか不明なのだ。拘置所の場所も、他の詳細も、一般市民は何も知らされていないという。

 リーネルトさんの親なら少しは何か知っているかもしれないけど、きっとリーネルトさんがどんなに尋ねても教えてはくれないのだろう。子供が尋ねて教えてもらえるくらいなら、ここまで実態がわからないということはないはずだ。

『……そろそろ、行かなきゃいけません』

 リーネルトさんは、拳で目をぬぐい、鏡を手にしたまま立ち上がった。

『色々あって、父が田舎の閑職かんしょくに飛ばされました。僕も学校をやめて一緒に行くことになっています。皮肉にも、左遷されたことで父の人柄から傲慢ごうまんさが消えました。今のヴァイオリンはいずれ売るかもしれませんが、今後は僕が望む通りの音楽を続けていいと言われています』

 リーネルトさん、ここを離れるんだ……。

『僕がもう少し大人だったら、家族についていく以外の選択ができたかもしれません。今は、町を離れて少し考える時間が欲しい。寂しいけど、この教会ともリネさんたちとも、しばらくお別れです。最近、町が前よりも騒がしくて、何かが起こっている気配を感じますが、誰も何も教えてくれません。鏡だけは守らないといけないので、すみませんが、また床下に隠します』
「……わかりました。わたしも、それがいいと思います」

 親といれば、少なくとも彼の身の安全は保証される。
 レヴィンさんは、大人たちの問題にリーネルトさんが巻き込まれることを恐れていた。きっと、家族と一緒にしばらく町を離れるのが一番の正解なんだ。

「リーネルトさん。また、会えますか?」
『必ず、またここに戻ってきます。今よりもしっかりした大人になって。それまで、どうかお元気でいてください。今日はリネさんとお話できて良かったです』
「わたしも、会えて嬉しかった。リーネルトさん、どうか気をつけて」

 鏡が、再び闇に閉ざされる。
 わたしは、一人の少年がつらい経験を胸に抱えながら旅立っていく背中を、心の中でいつまでも見送っていた。

 * * *

 リーネルトさんは去っていった。
 去り際に、牧師さんあてに鏡についてのメモを残していくと言っていたけど、肝心かんじんの牧師さんがいつここへ来るのかわからない。別の誰かに鏡をたくす方法を探さないと。

 しばらくすると、コンサートルームの外が騒がしくなった。
 いづ兄が外出から帰ってきた?
 話し声がする。いづ兄一人じゃなく、誰か来たんだ。音道おとみちさんかな。

 いづ兄がコンサートルームまで引っ張ってきたのは、茶髪で小柄でヒョロっとした、失礼ながらいかにもチンピラ(ヤクザの下っ端)という外見の一人の若者だった。パッと見ガテン系のような大柄ないづ兄に首根っこをつかまれて、ますます小さく見える。

「ぐえっ、いたっ、首しまるー! かっ勘弁してくださいよー!」
「うるせー! 今日こそ洗いざらい全部話してもらうからな!」

 いづ兄がドスッと若者を下に落とし、「うぎゃっ」と小動物のような悲鳴を上げさせる。

「えーと、いづ兄……この方は?」
「捜してたやつをやっと見つけたんだ。こいつ、『飛揚ヒヨウ』のメンバー。俺より下っ端の見張り役だ。さあ、あの世界で何が起こってんのか、知ってることぜーんぶ話してもらおうか?」

 いづ兄が発する眼光は、まるでネズミに牙をく虎のようだった。


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