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#18 エジプト珍道中 開けた蓋は閉めなくてはいけない

※この話にはゲロの描写があります。ご注意ください。

ルクソールでは安宿ではなく高級ホテルに泊まることにしたのだが、そのホテルを舞台にこの旅最大の事件が起きてしまった。

ソフィテル・ウィンターパレス・ルクソール。イギリスの推理小説家アガサ・クリスティが『ナイルに死す』を執筆したホテルのひとつだ。そのあらすじは、ハネムーンでエジプトに訪れた夫婦の身に災難が降りかかるというものなのだが、新婚旅行のさなかの私たちの身にも火の粉が飛んできたのだ。

この日は朝八時からルクソール西岸のツアーに参加した。ナイル川をはさんで太陽が昇る東岸は「生者の町」、太陽が沈む西岸は「死者の町」とされ、西岸には古代エジプトのファラオの墓が集まっている。まずは六十四もの墓が集まる王家の谷へむかった。ほとんどの墓は盗掘にあっているが、ツタンカーメンの墓には黄金のマスクなどの副葬品が眠っていて話題になったところだ。

橋を渡ると景色が変わった。サトウキビが刈り取られたあとだろうか。畑が多い。放たれた山羊が干し草を食べている農耕地もある。やがて乾いた砂がひろがりはじめ、墓がつらなる岩山の谷に到着した。車のドアを開けて外にでると、もわっとした熱気が貼りついてくる。この日の最高気温は四十度近く。雲ひとつない青空がひろがり、容赦なく陽射しが肌を焼いた。

王家の谷では、セティ一世、ラムセス五世、ラムセス六世の墓をまわった。なかでもセティ一世の墓に残る壁の装飾は、いまでもこんなに鮮やかに色が保存されているのかと驚いた。墓は岩窟のなかにあるので、鍾乳洞のなかのように涼しくて快適だ。しかし、外にでると四十度の地獄が待っていた。気温差がつらい。結局、東岸に戻ってきたのは午後三時半。お昼抜きのスパルタ系ツアーを終えて、やっとのことでホテルにたどり着いた。

ホテルは噂に違わぬ、豪華な宿だった。

フロントでチェックインを済ませて部屋の鍵を受け取った。手のひらにずっしりと重さが伝わる。金色に光るキーホルダーは、ヒエログリフをかたどったものだった。

部屋に入る。天井が高い。床から天井までのびる臙脂色のカーテンは自宅の二倍くらいの長さがあった。三回転ごろごろ寝転がっても落ちそうにないほど広いキングサイズのベッド、一人がけのソファがふたつ、丸いテーブル、化粧直しの鏡が置かれたキャビネットがふたつに、身長くらいの高さのキャビネット。こんなに家具があるのに、バスルームとのあいだにはまだ、卓球台を置いて試合ができそうなほどの余白があった。

張り出しのバルコニーに出る。庭の新緑がまぶしい。背の高いナツメヤシがまっすぐ伸びている。青々とした芝生には放し飼いの孔雀とフラミンゴが自由に歩いていた。妻と私は非日常の空間に興奮し、暑さも忘れて庭を散策しながらはしゃぎまわった。その後、ナイル川に沈む太陽を見届けながら夕飯を食べ、部屋に戻った。

そしてその夜、事件は起きた。

バスルームから嗚咽が聞こえたような気がする。大丈夫? どうしたの? ドアにむかって声をかけると、少し時間をおいてから妻の声が返ってきた。大丈夫だよ。心なしか弱々しい声に感じた。すると、しばらくたってからまた嗚咽が聞こえた。今度は先ほどよりもはっきりと。私は勢いよくドアを開けてなかに入った。すると、青白い顔をした妻がバスタブに浸かっている。妻の口から小さな声が漏れた。

「吐いちゃった」

よく見ると、浴槽のお湯が濁り、夕飯に食べた肉、魚、野菜の残骸らしきものが浮いている。饐えたにおいが鼻を突く。── 胸がむかむかして気持ち悪くなっちゃって。最悪の場合は便器か洗面台にと思ったけど、こんな豪華ホテルで吐くわけにはいかない。なんとかやり過ごそうとしたけど、そのまま湯船に吐いてしまったの。後から振り返って妻はこう語った。

熱はないようなので、冷たい水を飲ませて休んでもらおう。そう考えた私はバスタブの栓を抜いてお湯を流そうとしたのだが、自宅のお風呂にあるような鎖の先に黒いゴム栓がついた定番のものではなく、丸く大きな金属の栓で固く閉ざされていて、浴槽や蛇口のまわりをくまなく探したのだがどこにも栓を開けるスイッチが見つからない。

数分がたった。こうしているあいだにも妻の体が冷えてしまう。私はとりあえず先に妻の体を洗って介抱しようとシャワーの蛇口をひねった。だがそこへ、次の壁が立ちはだかった。浴槽のなかにはすでに縁に達するほどのお湯が溜まり、これ以上加えると溢れてしまいそうなのだ。妻が意外な解決策を提示した。

「溢れさせたらどうかな」

あんまりゲロを広げないほうがいいのでは、と頭をよぎったが、そのあいだにも湯船のかさは無情にも増していく。一刻の猶予もない。私はお湯の量を気にせず、シャワーを解放して妻の体を洗った。その代償として、吐瀉物はバスタブの壁をこえてバスルームにひろがり、安全な土地を侵食した。

その後、妻がバスタブの栓を開くことに成功し、残るは大理石の床にひろがったゲロまじりのお湯だけだ。どうしたものかとあたりを見回すと、洗面台の下にステンレス製の四角い蓋を見つけた。蓋を開けてみると、なんでも呑みこんでくれそうな漆黒の闇をたたえた穴が現れた。暗すぎてなかは見えない。掃除のときに洗った汚水を流すための穴だろうか。私はバスタブの外に溢れたお湯を穴に流し入れることにした。

その後も妻は何度かトイレに駆けこんで嘔吐を繰り返し、下痢にもなっているようだった。炎天下のなか王家の谷を歩いて、熱中症にやられてしまったのだろうか。私と妻は早めにベッドに入って休むことにした。

深夜三時ごろ、ふと目が覚めた。すぐに眠りに戻ろうとしたのだが、思わず昨晩の顛末を思い返してしまう。と、そのとき、なにかの小説で出会った言葉が脳裏をよぎった。

開けた蓋は閉めなくてはいけない。

漆黒の闇をたたえた穴が思い浮かぶ。あ! そういえば、洗面台の下の穴に汚水を流したあと、蓋を横に置いたまま閉めていない。でも、朝まで開いたままにしておいてもどうってことないだろう。このまま眠ってしまおう。掛け布団をかぶりなおし、固く目をつむる。だが、うまく眠れなかった。

開けた蓋は閉めなくてはいけない。

また頭にこだまする。そのうち、穴のなかには何が入っているのだろう、と妄想がはじまった。連日、宿泊客の汗を流した汚水がその穴に捨てられる。なかには腐敗したどろどろの黒い液が溜まる。穴に棲みついた虫たちが、その腐敗を貪る。やがて虫たちは頭上の穴が開いていることに気づき、夜のあいだに行動をおこす。暗闇の穴の世界から抜けだし、天上のバスルームの世界へ解き放たれる……。

気づけば、バスルームのドアの前に立っていた。蓋を閉めなくては。私はひとりで任務を遂行しようと覚悟を決めた。深呼吸を二回。ドアノブを握る。照明をつけて、恐る恐るドアを開いた。


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