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短編小説「りんごの花」

 あの男のことは、忘れようったって忘れられませんよ。江藤辰也——ですか。いや、あーしはあの男のことをその名前で呼ぶたぁありませんでした。結局、一度もね。

 なぜかって、そりゃあそれが本名でないんですからね。逮捕時に、そう周りから呼ばれてたってだけで。それまでも幾つも別の名前があったらしいじゃないですか。佐野、町田、川原……でも、どれもやつの名前じゃあない。記者さんも知っての通り、やつには戸籍ってもんがないんですから。もちろん、逮捕やら裁判のあれこれで、やつの戸籍は作られたわけだけど、それは手続き上だけのものだから。

 まったく、どうしてですかね。生まれた子供の届けも出さないだなんて、そういう親がときどきいるそうじゃないですか。そりゃあ事情もあるんでしょうけど、戸籍がないってのは、存在を認められてないってのと同じことですよ。ひどいことです。その時点で虐待と言ってもいい。この国で保証されている子どもの権利を、親が放っちまうってことですからね。

 けど、不思議なことですよ。そういう親の子供に限って、親を嫌うことがないんですわ。ほら、ニュースでもよくやってるでしょう。虐待死。殴ったり蹴ったり、食事を与えなかったりで、死ぬ子供。ああいう子供はね、なぜか親が好きなんですよ。ひどいことをされてるんだから、逃げるなり何なりすればいいのにってこっちは思うけども、そうじゃない。生まれてこの方、殴る蹴るといった関係性しかないと、そういうようになるんでしょうかねえ。あーしの弟が児童養護施設ってのに勤めてるんですが、そういう親に愛情をかけてもらえない子供ほど、「ママ大好き」「パパ大好き」って、口に出して言うんですって。そうやって関係性を確かめてないと、不安なんでしょうなあ。施設に預けたっきり、一度も会いに来ない親なんかでも、子供は大好きだって言うらしいです。

 きっと、あの男もそうだったと思いますよ。戸籍もなく、学校も行けず、虐待され続けたとしても、あの男は親を恨んじゃなかった。むしろ、こうなっても親を庇い続けたんですからね。ええ、ええ、親はとっくの昔に死んでますよ。といっても父親の顔を知らないようだったので、母親のほうだけですわね。あの男が成人する前だったんじゃないかと言われてます。

 そうなんですよ、あいつは何にも喋らんもんだから、何も分からないってのが正直です。けど、まあそんなことになってました。墓はどうしたのか知りませんけどね、金があるわけもないんだから、無縁仏にでもなったんじゃないかって。何処のかって、そんなのも分かりませんわね。母親の戸籍があったのかも分かりませんが、あいつは名前すら口にしませんでしたから。だから、母親がどこの誰かってのも、全然分かってないんです。

 唯一分かってるのは、あいつを虐待した張本人だということですわな。あいつの体は——見たことがあるわけもないでしょうが、まあ、とにかくひどいもんでした。目につくのは火傷の跡でしたけどね、ありゃ煙草でしょう、昔は根性焼きなんて言いましたけど、体中にその根性焼きの跡があるんですわ。それに医者に言わせると、骨折の跡があるそうで、それもどうも医者にかからず、自然治癒したせいで骨がちょっと曲がってくっついてるんですってね。残ってたのはそれくらいでしたけど、それでもすさまじいものがあるでしょう。これが当時はアザやら怪我やら、もっとあったはずですよ。小さい子供がねえ、そんな風に虐待されて、何も言わずにいたかと思うと、あーしも胸が苦しくなりましてね、事あるごとに言ってやったんですよ。カウンセラーでも教誨師の先生にでも、お前の過去を話してみたらどうかって。そうすることで、お前の過去や犯した罪がどうなるわけでもないかもしれない。けど、何か気持ちが変わるかも知れないぞって。でも、やっぱりやつは動きませんでしたね。何を考えてるのか、じっと押し黙ったまま、あーしの言葉を聞くだけでした。

 そう、だから記者さんがあいつが何を言ったか、そういうことを聞きたいんであれば、無駄ですよ。あいつは自分自身のことについてはずっと黙ってた。どこで生まれたのか、育ったのか、そんなことすら話そうとしなかった。まあ、どこで生まれたのかは分からなくても、どこで育ったかくらいは分かると警察でも高をくくってたらしいんですけど、それも結局分からなかっっていう。なんでも顔を自分で整形してたとか、してないとか。いや、整形医にかかったという記録が見つからなかったらしいんですよ。もちろん、そこが潰れたとか、闇医者だったとか、そういうことはあるにしてもね。

 そういう意味で、記者さんが謎の死刑囚と言うのもその通りなんですわ。これには弁護士先生も困っててね、ほら、先生方はあいつの弁護をしたいわけだから、少しでも虐待の話や何かを本人以外の人から聞いてね、情状酌量じゃないけど、そんな風にしたいわけですわ。親に虐待されたせいだって、そりゃあそういうところは大いにあるでしょうからね。もしかしたら、そういうことを喋ってれば、死刑は免れたかもしれない。

 でも、やっぱり本人も自分自身のことは何も言わんかった。事件のこと、被害者の方々をどうやって、というようなことは詳細に喋りましたがね。でも——いやまあ、こんなこと言ったらご遺族に悪いかもしれないけども、あくまであーしの感じたあれですよ、そういうのもね、どうも何というか事実を喋ってるっていうだけでね、あの男自身にどういう感情が働いてそうなったのか、というのは、最期まで喋らなかったって気がするんですよ。いや、ほんとにあーしの感じ方でね、そのときどう感じたのか、今どう思ってるのか、そういうことは表へ出さないようにしてるというか、自分の中に仕舞い込んでる感じがしたんですわ。だから、自分のしたことを反省してたかって聞かれるとね、それは……。

 いや、そうじゃありませんよ、あいつが最期まで反省してなかったとか、そういうことじゃあないんです。そりゃあ、人殺しなんてひどいことですよ。この世で一番やっちゃいけないことだ。だから、死刑って厳罰が科せられるんですからね。いや、もう科せられたんだ。あいつは死んで、罪はもう償われました。そうでしょう。死刑ってのはそういうもんですから。あいつが死んで、世の中からは一人、悪人がいなくなりました、めでたしめでたし。

 ……そう言うと、やっぱり皮肉に聞こえますかね? もしそうだったらすまんことです。記者さんはともかく、遺族の方には申し訳ない。でもね、あーしみたいな人間でもね、刑務官として十何年も世話してやった男が殺されるとなると、なかなかこう、胸に来るものがあるんですよ。ああ、また「殺された」なんて言うわけですしね。でも、現場の人間から言わせてもらえれば、あれは殺し以外の何物でもないですよ。だって、あいつが大人しく自分の首に縄かけて、自分で台から飛び降りるんならまだしもね、大の大人数人がかりで暴れるのを押さえつけて、首に縄かけて吊すんだから、そりゃあまともな人間だったら、あれを刑罰だから当然なのだ、なんて思えないですよ。いやいや、それはなかなか難しいです。

 何でも殺すってのは辛いです。例えば、犬猫を殺処分するにしたって、辛いでしょう。犬猫は法律上は物品で、必要ないんだから始末するんだって言われても、実際やるほうは心を壊しますわね。犬猫は罪がないから、例として正しくないと? じゃあ、人をかみ殺した犬ならいいですかね? それでも犬はかみ殺しちゃいけないって分からなかったんだからしょうがないですか? でもあの男は人間で、人を殺すのはいけないことだと分かってたから、だから殺してもいいってことですか?

 もちろん、こんなこと言ったって、犬が何考えてるかなんて分からないんだから、しょうのないことだとは知ってますよ。でも、こういう仕事をしてると、あーしは思うんです。人間は人間というものを過信しすぎじゃないかって。人間だから分かるはずだ、人間だからできるはずだ、人間だから同じような思考が出来るはずだ——。

 でも、果たしてそうですかね? 同じ人間だからって、相手も同じようだってのは本当ですかね? あいつが、あの男が本当は何を考えてたかなんて、あーしには一つも分かりませんよ。やつは何も喋らなかったから——ええ、もしもやつが喋ったとしても、それがあーしが考えるような本当だという保証なんて一つもないと思うんですよ。本当のことを喋ってるかどうかなんて、あーしには分からないわけですし、それにやつ自身にしたって、その本当のことを喋る能力があるとは限りませんわ。言葉の選び方一つ、表情一つ、適切なものが選べるかなんて、あーしにも自信がありません。あーしがいま喋ってること、これだって、本当の気持ちが記者さんに分かるように喋れてるかなんて分からないし、これがあーしの本当の気持ちかさえ分からない。明日になったら、昨日は妙なことを口走ったな、と思うことだってあるわけです。だとしたら、いま喋ってるのは本当じゃない。そうじゃないですかね。

 いいや、そうじゃありません。あいつは最期、暴れはしませんでしたよ。死の恐怖に怯えながら、子供みたいに泣いてました。死刑は十分な罰だったでしょう。なら、あーしは死刑反対なのかって? いやいや、それで定年まで飯を食ってきたわけですから、そういうわけでもないと言いますか、何と言いますか。

 ただ、そうですね。やつの首に縄をかけたのは、あーしでした。首筋に、例の根性焼きの跡があって——ええ、そのとき、なんでこの男は殺されなきゃならないんだろうと、そう思ったことは確かですわ。だって、そうでしょう。この男の人生が過酷だったことは想像に難くない。戸籍もなく、学校にも通えず、虐待され続け、その親も早くに死んで……。

 記者さん、こういう言い方、知ってますか。サバイバー。生き残り、って意味ですよ。虐待やいじめを受けても、死なずに生き残った子供たちのことです。ねえ、だとしたら、この男は歴としたサバイバーだったんです。あーしらの想像もつかないような辛い人生を生き残ってきた——それなのに、あーしはその男の首に縄をかけたんです。せっかくの生き残りを、この手で殺したんです。そんな意識が、あれからずっとつきまとって。そりゃあそういう意味では、やつは真のサバイバーではなかったのかもしれませんがね。人生が過酷だった故に途中でつまずき、結局他人を手にかけてしまったんですから。

 ええ、これ以上の話はないですよ。十何年もずっと一緒にいたって、あの男のことをあーしは何も知らないんです。だからこれで終わりです。記者さんも、こんなところまでご足労様でした。

 ——いや、やっぱりちょっと待ってください。一つだけ、言おうか言うまいか迷ってたことがありまして。別にどうということではないのかもしれませんが、話を聞いてもらえますか。

 いえね、あいつには身寄りも何もないもんだから、差し入れってものが少なかったです。死刑囚にファンレターを送ってくるような人もいるんですが、あいつはそういうものは全部断って。それを、あーしはちょっと不憫に思いましてね。拘置所の部屋も殺風景なもので、少しくらい華やかにしてやろうと、花を差し入れたことがあったんですわ。あっしの妻の実家が農家でね、季節の花なんかが野菜やらと届くもんで。そのとき届いた、何だか白い花の咲いた枝をやつの部屋に持って行ってやったんですよ。ほら、花でも飾っとけ、ってな感じでね。そのときだったですよ。りんごの花——あいつはそう呟いたんです。りんごの花だ、って。

 思えば、あーしがやつに肩入れするような気持ちになったのは、それからのことだったかもしれないです。何にも喋らないやつが、そのときだけぼそっと呟いた一言で、あーしは身につまされちまったんですね。一体、こいつは何なんだろう、世間の言うような殺人鬼なのか、冷酷な鬼なのかって、そこに疑問を持っちまったんですね。

 だって、あーしには何だか分からなかったその白い花——りんごの花があいつのふるさとには咲いてるって、そうしてりんごの花が咲く季節にはいい思い出があったんだって、そのときのあいつの顔で、あーしには分かっちまったんですから。自分のことを何にも喋んなかったあいつにも、ちゃんと思い出して嬉しいようなことがあるんだって。苦しいこと続きだったかもしれないけども、それでも優しい思い出があったんだって。

 ……ええ、はい、それだけの話です。本当にこれで言い残すことはありませんわ。今度こそ、これで全部です。はいはい、どうもさようなら。もし、これが記事になっても、連絡はいただかなくて結構ですわ。ええ、あーしは本当のことを本当のままに喋ってるつもりだけども、それでもあのとき妙なことを口走ったな、なんて思いたくもないですからね。特にあいつの思い出だけは。

 ええ、駅に戻るには右です。この道を右折して、ほら、あそこに一面、白い花が咲いてるでしょう。あのりんご畑の角を曲がって、真っ直ぐ真っ直ぐ行くだけです——。

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