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短編小説「楮(後編)」

★こちらは「後編」になります。「前編」はこちらから↓


「鉄砲撃ちやろか。この先に用があるゆうんは、それくらいやろ」
「なら、落ちたかの。見てきちゃろう」

 集落道は細く、崖から落ちまいとするあまり、逆側の側溝にタイヤを落とす車が少なくない。様子を窺っていると、木の向こうに白髪頭がよぎり、「こんにちは」、訛りのない男の声が聞こえた。「どうも」、応える祐介の声。「大丈夫ですか」。
「え?」
「いや、手伝いが必要やろかと思うて」
「あ、すみません。ここに停めたら迷惑でした?」
「大丈夫ですけど、————」

 どうやら脱輪したわけではないらしい。真砂子は、声から意識を逸らし、片付けに戻ろうとした。と、そのとき、「ああ——」、男の声がやけに明るく響いた。

「あのおばあさんのお孫さんなんですか。じゃ、ちょうどよかった。おばあさん、お元気ですか? あ、いえ、僕、怪しいもんじゃないんです。実は僕、地方の小さい祭りが大好きで。ここも面白い祭りがあるって言うんで、来てみたんですよ。そしたら、もう、このあたりは棚田が美しいでしょう。日本にまだこんな場所が残ってたんだって、僕、びっくりしちゃって。感動しちゃって。それで、これは絶対、残さなきゃならない風景だろうって——ああ、僕、カメラも祭りと同じくらい好きなもんで、それでもうその年のうちにもう1回有給とって、ちょうど今頃なんだけど、撮りに来たんですよ。それで——そうだ、見てもらった方が早いですね。どうぞ、これ」

 男の声が途切れ、元の静寂が山を包んだ。祐介の息を呑む音が聞こえたような気がしたが、さすがにそれは空耳だろうか。祐介の沈黙があまりに長かったのか、男は痺れを切らしたように言った。

「ね、これ、よく撮れてるでしょう。賞をとって、新聞に載ったんですよ。日日新聞。見たかなあと思ったけど、その様子じゃ見てなかったみたいですね。じゃあ、わざわざ持ってきて良かった。ほら、審査員のコメント……『忘れ去られた日本の原風景を運良くも捉えた』って。ひどいでしょ、僕の腕とは関係なく、題材が良かったみたいな、ねえ。まあ、でもそりゃそうだって話なんで、報告ついでにリベンジというか、また撮らせてもらおうかなぁ、なんて——」
「祖母は、去年に亡くなりました」

 固い声が、男の明るい声を遮った。

「それは……御愁傷様です」

 男は声音をがらりと変えた。

「えっと、去年か。じゃあもうこの写真の後というか……」
「直後ですね」
「え? それはすごい偶然というか……えっと、じゃあお線香でもあげさせてもらっても——」
「済みません。仏壇はここにないがです」
「そうですか。……じゃ、これだけでも」

 消え入るような声の後、車のドアが閉まる音がし、続いてエンジン音が聞こえた。オレンジ色が後退と前進を繰り返し、別れの挨拶のように赤いテールランプを一瞬光らせ、遠ざかっていく。タケを撮った人間がいた——ぼうとしていると、風が動き、気がつくと目の前に封筒を差し出す祐介がいた。真砂子はゆっくりと目を落とした。

「……聞こえとった?」
「うん。聞いとった」
「嫌なら、 俺が捨てとこか」
「…………」

 ——どんな写真やった?

 真砂子は光にかき消されるほどの声でつぶやいた。自分で見いやと言うように、祐介が封筒を押しつけた。真新しい封筒からは、糊とインクの匂いが立ち上った。冷たくかさついた指で中を探り、引き抜くと、大きく引き伸ばされた写真が陽に反射し、真砂子の目を眩ませた。直後、真砂子はタケと再会した。丁寧に束ねたカジを背負い、家までの坂道を上がる母。それは真砂子の記憶より、少し、ほんの少し小さな背中だった。

「これ、後ろから撮っちゅうろう」

 祐介の声は低かった。

「ばあちゃんの許可なしにやったんで」

 そやね——相槌は、声にならなかった。真砂子の目からは涙が湧いて、それはいくら固く唇をかみしめ、止めようとしても無駄だった。母さん、母さん。声にならない声で真砂子は叫んだ。その真砂子から目を逸らし、祐介が鼻をすすった。その途端、ぽたりと写真に滴が落ちた。

    *

 午後も3時を過ぎ、太陽が山に隠れると、あたりの気温は一気に下がり、底冷えがする。深緑色に押し黙った杉は一層暗く、身じろぎもせずに立っている。坂道の下に停めた、借り物の軽トラックには、粗大ゴミとなったタンスやコシキ、ゴミ袋が山積みされ、それは落ちないようにロープで固定されていた。

「今日はこればぁで置こか。ゴミの持ち込みは夕方までやし」

 納屋の戸を閉めた祐介が、少し疲れた顔で言った。真砂子は頷き、玄関の鍵をかけた。無口なまま、2人で坂を下り、軽トラに乗り込む。と、真砂子の手が、助手席のドアを開けたまま止まった。

「何しよん。はよ乗りや」
「うん」

 しかし、真砂子は片手でドアを押さえたまま、荷台のゴミ袋をじっと見た。ゴミとなったあの木型が、半透明の袋から透けていた。

「祐介」
「何?」
「母さんさ——」

 真砂子はゆっくりと口を開いた。

「母さん、ばあちゃんの仕事をやってみよか。ここへ住んで、田ぁやって、山菜取って、カジやって。ほいだら、押し寿司も作る暇があるろう。木型もコシキもほかすことないし、家もこれ以上片付けいでもええし、そう、町の家にはあんたが住んで、気が向いたら、ときどき見にきてくれたらええ。母さんがばあちゃんにしよったように、月に1回でも、2回でも。そりゃ初めっからうまくはできんかもしれんけど、あんたにやるくらいの米ならできようね。なんの、九十のばあちゃんがやりよったことを、わたしができんでどうする。わたしだってまだまだ——」
「母さん」

 熱に浮かされたように言葉を継ぐ真砂子を、祐介の落ち着いた声が遮った。真砂子は祐介を見た。祐介も真っ直ぐ真砂子を見た。運転席の窓を背に影となった祐介は、それまでのどんな瞬間よりも大人びていた。その祐介の口元が小さく動いた。

「無理よ」
「……でも」
「無理ぞね」

 祐介の言葉に、真砂子は糸が切れたように口を噤んだ。それからしずしずと助手席に乗り込んだ。乾いた音で、ドアが閉まった。冷え切ったエンジンは何度か軋むような音を立てた後、ようやく発進の兆しを見せる。祐介が重そうにハンドルを切り、ゆっくりアクセルを踏み込んでいく。1年分の草を蓄えた田んぼと、今年も刈りどきを迎えたカジが、その後ろ姿を見送った。

短編小説「楮」 完

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