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短編小説「楮(前編)」

高知の田舎を舞台にした短編小説「楮(コウゾ)」です。楮とは和紙の原料になる植物で、高知の方言では「カジ」と言います。カジは棚田の周りで育て、冬に収穫し、その皮を集めます。その皮が和紙になるのです。

毎年毎年、同じように米を作り、カジを作ってきたお婆さんが亡くなり、遺品整理に来た娘と、その子供(孫)。彼らが遺品整理をしていると、お婆さんを訪ねに来客があります。その来客の用件とはーー

約6000文字の短編小説。前編・後編に分けて掲載します。


 薄暗い納屋で倦(あぐ)ねていると、閉まりかけていた板戸が音なく開いた。差し込んだ色味の枯れた光の中で、真砂子の吐息が白く上がった。

「母さん、これ、どうしよか」

 祐介の手には、押し寿司の木型があった。

「これだけじゃのうて、ようけあるんやけど」
「……誰か、もろうてくれる人がおるやろか」
「さあ。みんなそれぞれに持ちゆうやない?」
「そうよねえ。私もよう作らんし」
「なら――」

 もったいないけど、捨てとこか――今日に限っても、何度目の台詞だろう。そう繰り返すうちに心は削がれていくようで、いたたまれず、真砂子は戸外へ出たのだった。そして、古びた納屋の戸を開けた。家の中と同じく、整理整頓されたそこには、使い方も分からないような農具たちが、出番を待ちかね、眠っていた。

 春、夏、秋、冬。去年死んだ真砂子の母、タケの営みは、巡る季節と共にあった。16年前に夫の長蔵を亡くしてからは、そのあり方がより濃くなった。顔の見えない人のためではなく、自分の食べるだけ、真砂子や孫たちの食べるだけの米を作れば、時間はありのままに流れていく。

 早春、水路の掃除から始まって、代掻きに畔(あぜ)作り、苗作りに田植え、草引き、見回り、収穫にはざ掛け、稲扱き、精米――季節に呼び起こされ、使われた農具たちは、仕事が終われば丁寧に泥を落とされ、何十年変わらぬ場所で眠りに落ちる。死ぬ前日まで、仕事をしていたタケのように、季節が巡れば再び目を覚ますのだと、当たり前のように信じ切って。

「わ、これ風呂やん。タンスと一緒に粗大ゴミにせにゃあ」

 そのとき、祐介が素っ頓狂な声を上げた。真砂子は我に返り、その「風呂」を見て、笑うように息を漏らした。

「それは風呂やない。コシキよ」
「コシキ?」
「あんたは知らいでか。ばあちゃん、冬んなると——そうやね、ちょうど今頃になると、カジをやっとったでよ」

 人の背丈ほどある、木でできた樽のようなコシキは、それを知らなければ五右衛門風呂のように見えるのか。ぴんと来ない顔の祐介に、真砂子は隅に立てかけられた、象牙のようなカジガラを指した。

「これ何。木?」
「カジガラやて。カジを蒸して、皮剥いで、その皮を紙漉きの材料にするろう? これは皮とった後のガラやけど、杭らぁに使うで、取っておくが」

 しかし、それもタケが死んでしまえば、ただのゴミだ。

「紙漉き……」

 祐介は一寸考え、「ああ、和紙の」と得心したように頷いた。

「中学ん時に、社会見学みたいなもんでやったがよ、あれか」
「吉野さんっちゅうおんちゃん、葬式に来たろう。あの人んく(の所)へやっとったでよ」
「いや、その人は分からんけど……そうか」
「あんたにも手伝わせたら良かったかも分からんな。ばあちゃんもそう思っとったかも」
「自分がようやらんくせに、何を」
「そら、わたしはやらんよ」
「なら、俺もやらせんよ。この人はなんで自分のやらんもんを、人にやらせるかね」
「ほいでもよ」

 真砂子は骨のように滑らかなカジガラを撫でた。タケが死んだのは、カジを刈り終えたという晩のことだった。「明日に蒸すがやけんど、ちっと手伝(てつどう)てくれんかね」——伺いの電話に、勤め人の真砂子は「急やき、無理よ」と答えざるを得なかった。「それに——」。高校卒業後、家を飛び出した真砂子は、祐介の言う通り泥を嫌い、タケの手伝いなどしたことがなかった。それは祐介を授かり、一人舞い戻った町で産み、女手一つで育てた後も同じだった。

 タケもタケで、娘の手伝いなどなくとも、一人でうまくやっているようだった。一人で無理がある仕事——特にカジをするときには人を頼み、コシキを引っ張り出すのだった。「どうしたが、頼んだ人が来られなくなったが?」。それを知っていた真砂子は聞いたが、タケは「ほんなら、ええでね」と特に不機嫌になるわけでもなく、電話を置いてしまった。

 しかし、それがタケとの最後の会話だった。次の日、胸騒ぎを覚えた真砂子が仕事終わりに山へ行くと、タケは布団の中で冷たくなっていた。丁寧に束ねられたカジはそのまま軒下にあり、タケが昨晩のうちに息を引き取ったことを教えていた。同じことを、医者も言った。「昨晩やろうね。でも穏やかなお顔をしとるから、苦しまなかったろうよ」と。

 黙り込んだ真砂子をよそに、祐介は手の木型をゴミ袋に放ると、もう一度視線をコシキへやった。それから、小さく首を振り、冬の光に顔を向け、眩しそうに目を細めた。

    *

 カジを蒸すためのコシキは、1メートル半ほどあるカジの長さに合わせた、底のないドラム缶のような形状をしていて、使うときには別に木枠を組み立て、天秤のようなその片方に吊るして使う。

 そうして大釜で湯を沸かしたところに、カジの束を縦に詰め込み、テコの原理で持ち上げたコシキをすっぽりかぶせて蒸し上げる。適当なところで、もう一度テコの力でコシキを持ち上げ、カジを取り出す。乾いた薄青の空に、入道雲のような蒸気が上がる。

 その白に見惚れる余裕もなく、カジは冷めぬうちにムシロで包まれ、皮が剥かれる。ゴボウのように黒いカジの皮と、象牙のように白いカジガラが見る間に分かれ、積み上がっていく。その皮の方はまとめて紙漉きに回し、芯も束ねて春の苗立てに取っておく。その一連が、タケが長年続けたカジ仕事のやり方だった。

 この山間の集落では、田と言っても、1枚が5畝(せ)ほどの棚田であり、稲を育てる平面よりも、斜面(ネキ)の面積のほうが勝る。しかし、そのネキを放っているかといえばそうでもなく、そこにはゼンマイなどの山菜が自然に生えており、草刈りはそれら「春の楽しみ」を避けて行われる。

 一方、紙漉きのためのカジはといえば、これは地生えではなく、人の手によって植えられた冬の仕事の一つであった。幼い頃から見るでもなく、風景の一つとしてタケの仕事を見てきた真砂子の脳裏には、その光景がはっきりと焼きついていた。

 秋。よく乾いた稲束がすっかり取り込まれてしまう頃、町のあちこちで祭りが催される。豊穣を祝う祭りだ。真砂子の集落でも豊穣祭とお宮祭りという二種類の祭りが開かれ、静かな集落はいっとき、賑わいを帯びる。しかし、それが終わってしまえば、再び山は静けさに包まれる。カジを刈るのは、その静けさが日常へと戻った頃である。

 大工だった長蔵が建てたこの家は、一家所有の田から狭く急な坂道を10メートルほど上がった、坂の中腹あたりにあった。さらに坂を上がると、そこにはタケの兄——真砂子にとっては叔父の家があり、「義兄さんより高い場所に家は建たらん」という長蔵の一言で坂の中腹に決まったのだと、真砂子はタケに聞いたことがある。

 昔気質な話のようだが、実のところそれは方便で、「あんな坂、よう上らん」というのが本音だったと、これは長蔵が死んだときにタケが漏らした。その頃には、子がなかった叔父の家も途絶えていて、タケはその家の世話も欠かさなかったのだから、結局、坂を上らずに済んだのは、先に逝った長蔵だけだったということになる。しかし、その冬も変わらず刈ったカジ束を背負い、坂を上るタケは、「お父さんの判断は正しかったでね」と、白い息の下で笑うのだった。

「白黒写真で撮ったら、いつの時代かと思うほどの風景よね。大変なばっかりで、大したお金にもなりやせんし」

 遅い昼を取りながら、真砂子は隣の祐介に話しかけるでもなく、独り言ちた。台風避けの長い軒は、冬の太陽こそ遮ることなく、親子の並ぶ縁側を温めている。真砂子が息を吐き出すと、ふうん、うまそうでもなく幕の内弁当をかき込みながら祐介が応えた。

「でも、ばあちゃんの写真なんかないろう。写真嫌いなんやから。魂が抜かれるゆうて、結婚式の写真も撮らざったに」
「それも、いつ時代の人間やっちゅうことやねえ」

 真砂子は小さく笑った。町の狭いアパートに移した仏壇に飾ったタケの遺影は、長蔵の葬式のときのものだった。

「じいちゃんが逝んだけぇ、もういつ魂抜いてくれたちかまん(構わん)ゆうて撮ったがよねえ。けんど、立ち直ったら気持ちが変わって、やっぱしそんなもん撮らんといてくれゆうて。だから、撮らんずついたら、とうとう逝んでしもた」
「どうせ、遺影で必要になるんじゃけ、こっそり撮っといたらよかったがよ」

 饒舌な母を気遣うように、祐介が言った。

「何も残らんのは、寂しいろ」
「どうやろうねえ」

 真砂子はタケの顔を思い浮かべようとした。しかし、薄青の空のせいか、浮かんだのはタケの姿ではなく、カジを蒸す蒸気の鮮烈なまでの白さだった。真砂子は笑うように息をついた。

「あったらあったで、寂しいもんかもしらんで。記憶の中にあるほうが、ほんとの姿のままかもしれん」
「そういうもんかね」

 祐介は言うと立ち上がり、空になった弁当箱をゴミ袋に突っ込んだ。それから、ふと坂の下に視線をやり、真砂子を振り向いた。

「誰ぞ来ゆうで。車が止まっちゅう」
「知らん車やね」

 真砂子も立ち上がった。杉の樹間を透かすように、そちらを見る。枯れ草の色を蹴散らすような、きついオレンジ色が眼を射た。

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