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短編小説 『戻れないりんご』

 果実食主義——フルータリアンは素晴らしい思想だ。なぜならそれは動物の権利を侵害せず、植物の権利を侵害せず、ヒトが生きる唯一の方法だからだ。まったくほら、ヒトという生き物は寄ると触ると他の生物の権利を侵害してしまうことは君も知っているだろう? 森は消え、ツバルは沈み、シロクマは死に絶える。全部、ヒトのせいだ。ああ忌々しい、まったく何と非道なことだろう。あってはならないことだ。決して起きてはいけないことだ。

 けれど、嘆いているだけでは何も変わらない。ヒトは知性を与えられた生物なのだから、その知性をもってこの罪に向き合わねばならない。その答えがフルータリアンというわけだ。これこそがこのヒトに蹂躙された世界を救う手立てであり、ヒトが他の生物の権利を侵害することなく生きる、たった一つの方法なのだ。動物を殺さず、植物を殺さず、だというのにヒトも生きていける——つまり共生だね——そんな世界を実現するための。

 まず、動物を殺すのが悪だというのは分かるだろう? 恐ろしいことに、いま、多くのヒトは動物を殺して食らうことに何の罪も覚えないわけだが、しかし、実は最初からそうだったわけじゃない——と言ったら驚くかい? そう、もともとヒトは菜食だった。

 証拠は歯だ。ヒトの歯は他の肉食動物のように鋭く、肉を裂くために生えているのではなく、例えばヤギの歯のように植物をすり潰すために生えている。構造を見れば分かるだろう。ヒトの奥歯は臼のように平らだ。そして、前歯の先はかじり取るために平坦だ。

 まったく、その頃の世界はどんなにか素晴らしかっただろうね。植物も、動物も、ヒトも、すべてが共生し、互いを傷つけることがない世界。だというのに、どうしてヒトはその均衡を破ったのか。考古学者でもその謎は解けないだろう。しかし、私はそれが聖書に記された「りんご」なのかもしれないと思う時があるよ。もちろん、りんごといっても、いまフルータリアンの心強い味方であり、私たちの目の前にある、この素晴らしい果物のことじゃない。そうではなく——いわばそれは「肉のりんご」だ。蛇にそそのかされ、イブが口にしたのは血の滴る肉ではなかっただろうか。

 君の知っての通り、蛇は肉食だ。考えてもみたまえ、忌まわしき肉食の蛇が勧めたものがりんごとは、つじつまが合わないように思わないか? つまり、実際のイブは果物のりんごではなく、蛇の勧めた肉を食べたのだ。そうして楽園を追い出された。すべてが共生する、素晴らしい世界を。当然のことだね、肉しか受け付けない蛇はともかく、ヒトがそれを食べなければならない理由など一つもなかった。だというのに、あの愚かな女は罪を犯した。紛れもない罪だ。共生という均衡を破ったのだから。

 その罪により、それ以降、ヒトは争い、苦しみ、さらに罪を犯すことになった。肉を口にするだけでは飽き足らず、動物を育て、その動物の権利を奪うようになった。すなわち、これは私の動物なのだから、殺そうが何をしようが、誰の知るところでもない、と主張するようになった。それは命だというのに。命というものは、誰のものでも有り得ないというのにね。

 「肉のりんご」の罪に堕ちたヒトがそれに気づくまでに、一体どれだけの時間がかかっただろう。1000年? 2000年? いや、もっとだ、それよりずっと長い時間、動物たちの命は奪われ、蹂躙され、弄ばれ続けた。いや、蹂躙は終わったわけではない。いまもなお、ヒトは肉を食らっている。そこに気づき、共生の約束を思い出したのは、ごくごく一部だ。楽園へ帰ろうと、肉を拒み続けるヒトは。菜食主義者——ベジタリアンと、呼ぶべきヒトは。

 けれど、ベジタリアンは終点ではない。喜ばしいことに、そこからさらに考えを進めることのできるヒトも、一部ではあるが現れた。卵や乳製品さえも、動物の権利を侵害していると気づき、そこからさらに植物を食べることさえも、植物の権利を侵害しているのでは、と考えられるヒトが現れたのだ。

 植物の権利だって? 君はそんな顔をしているね。心外だな、植物にだって命はある。そう、こんな話はどうだね——例えば、乾燥地帯に生きるある種の草は、適期になると、根を残した上部を分かち、塊になってころころと地上を転がっていく。そうして種をまき散らすんだ。また、山火事を起こす木というのもある。その木は燃えても芽吹くことができるので、他の草木を抑制するために自然発火するのだ。どちらも植物の意志が感じられる、不思議な話じゃないかね。もっとも、そんな珍しい話をしなくとも、花は太陽に向かって開くし、花粉を運ぶ虫を惹きつける色で咲く。

 つまり、植物は生きているのだ。動物のような形でなくとも、同じように命があり、意志がある。それを蹂躙することは、動物に対して同様、許されない。そうだ、そこに気づいたごく一握りのヒトこそが、私のようなフルータリアンになるのだ。フルータリアンは共生の絶対条件、この世界を楽園に戻すための唯一の思想なのだ。

 いいかい。ここがフルータリアンの素晴らしいところだ。ヒトは動物を、植物の権利を常に侵害する側であったということは言った通りだ。そしてこれは言い換えれば、ヒトは生きてきたということだ。「肉のりんご」を口にして以来、ヒトは欲望のままにすべてから命を奪ってきた。これはいわばヒトの決めたルールに従ってきたということでもある。ヒトが決めた、ヒトにとって都合のいいルールで、この最悪の世界は成り立ったのだ。

 しかし本来、これはあってはならないことだということは分かるね? この世界はヒトのものではない。ヒトのものではないのだから、世界のルールをヒトが決めていいはずがないのだ。となると、誰が決めるのか。それは、あり方なのだよ。楽園では当たり前だった、共生の約束なのだよ。

 共生とは、共に生きることだ。互いの権利を侵害せず、それぞれがそれぞれのあり方で生きること。未だ勘違いしているヒトが多いが、世界においてヒトは一番ではない。それは動物でもなく、植物でもない。共生とはそういう考え方だ。となると、そこに誰かの決めたルールがあるはずもない。そこにあるのは、ただそれぞれのあり方だ。そして、他のあり方によって、ヒトのあり方も決まっていく。分かるかね? 植物が生き、動物が生き、ヒトが生きる。植物が死ねば動物が死に、ヒトが死ぬ。この均衡を保つために、ヒトが口にすべきものは何か。それが果実だ。果実は植物が生きるため、他の生物に差し出す部分。つまり、果実こそが、植物がヒトに与えた共生の選択肢なのだ。

 これで分かっただろう。フルータリアンが本当に優れた思想だということが。そう、ヒトは虫と同じに植物からの恵みを受け取り、生きるのではなく、生かされる生物なのだ。ハチが花粉を運ぶように、ヒトも花粉や種を運び、植物の命を生かす。「肉のりんご」の世界では、ヒトが生きると思うから、他を侵害しなければならないのであって、生かされると思えば侵害することなど有り得ない。そうだろう? ヒトが果実と共に種を食べ、それをまくのは「植物へのお礼」などではない。ただ、食べたという事実が種をまくことに繋がる、つまりヒトのあり方がそのまま植物の利益になるという、共生の約束なのだ。なんと素晴らしいことではないか。共生の世界で、ヒトはただ生かされればいいのだ。誰も、何も傷つけず。

 さて、それで、そういうわけなのだ。私がこのりんごを切り分けることもせず、まるごと君に提供するのは。安心したまえ、このりんごは自然のままに放置された木から、自然に地面に落ちたもので、他の権利を侵害するような行為は行われていないときっぱり断言できるものだ。もちろん、多少の傷や虫食いがあり、固く酸っぱいのは否めない。しかし、これを食べることで、ヒトは楽園に戻ることができる——すべてのヒトがそうではなくても、私の気持ちは常に楽園にある。それは幸せなことだよ。願わくば、世界中のヒトがフルータリアンという思想を持ち、あるがままの幸せを享受できますようにと思うのだがね。

 長話になったね。すまない、時間がないというのに。時間がないわけじゃない? それなら、何をそう、そわそわと……動物? いや、動物など飼うものか。いまの話を聞いて、どうして私が動物を飼うような人間だと思えるのかね。愛玩動物、特に犬などは家畜ほどの品種改良の末に生まれ、ヒトの存在なしにはその姿形も保てないような恐ろしいものだ——臭い? ああ、これは玄関に出したあれだろう。あのビニール袋には……何だ、その顔は人が悪い。さては気づいていたんだね。そうだ、あれこそ私が真のフルータリアンである証だ。

 まったく、この都会ではフルータリアンの思想は持っても、真のフルータリアンになるのは難しい。なぜかといえば、植物に生かされるヒトのあり方が、ヒト社会というものによって制限されているからだ。ヒトが決めたルール、世界の一番がヒトだという間違った認識の元に成り立ったルール。それが嘆かわしいことに、ヒトを真のフルータリアンにすることを阻んでいるのだ。

 さっきも言ったが、植物が果物をヒトに与えるのはなぜか、それはヒトが種をまくからだ。果物を種ごとかじり、そのまま移動して別の場所に種をまく。これが人間と植物の共生のあり方で、楽園の約束なのだ。

 しかし、都会ではそれができない。君も気づいただろう。そうだ。こともあろうに、多くのフルータリアンを名乗るヒトが、その種を下水に捨てているというのが実態だよ。ひどいだろう? まったく嘆かわしいことだ。それではヒトは共生の約束を果たせない。楽園に戻ることができない。

 そのためなんだよ、あの袋は。私は真のフルータリアンとして、週末ごとに郊外の森へ行く。そして、あのビニール袋の中身をまいてくるんだ。無論、一カ所に少しずつだ。尾籠な話だが、フルータリアンになると量が増えるし、一週間分もあるものだから、それはそれは骨が折れる仕事だよ。でも、私は強い意志を持ってそれをやり遂げる。それが約束だから、真のフルータリアンたる証だからだ。

 だから、君もこのりんごを食べたなら決してそれを下水に流さず、必ず土にまいてやってほしい。もし時間がなかったら、私のところに持ってきてくれてもいい。なに、手間はそう変わらないからね。

 え、りんごはいらない? 急にどうしたんだね。時間はあると言っていたじゃないか。いやいや帰るだなんて、そんなことを言わずに、君も真のフルータリアンになろう。そして、この世界にかつての楽園を取り戻そうじゃないか——。

この小説は、りんごをテーマにした短編集『りんごのある風景』の一編です。他の作品は上記マガジンより、ご覧いただけます。

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