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短編小説集『りんごのある風景』

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りんごをテーマにした短編小説集です。
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記事一覧

短編小説 『剥けないりんご』

 簡単だから、と私は言う。面倒だから嫌、と娘が言う。ピーラーのほうが便利だし、指を切る心配もないでしょ、と。  スーパーの棚に並んだ赤いりんごを前にして、私たちは時々そんな会話をした。もう6年生なんだから、そろそろ包丁で剥けたほうがいいわね、そのほうが早いし簡単だから、練習してみたらどうかしら。水を向ける私に対して、娘はいつも首を振る。怖いから、面倒だから、ピーラーで剥けるんだから練習なんて必要ない、と。  何度もそう断られるうちに、私は何も言わなくなった。言えなくなった

短編小説 『りんごの芯』

 潮時なのかもしれないと、そんな思いが頭をよぎる。百均で見かけたりんごカッター、あんなものまで気になるようじゃ、心は折れてしまっているのかもしれない。気づかぬふりをしているだけで、もう何ヶ月も、いや何年も前から、私は降参しているのかもしれない。この世の中の広いことに、人の心が見えないことに。  きっかけは貧しい人の訪いだった。お腹を空かせたその人に、父は黙って食事を出した。うちは何でもありの定食屋で、主な客はサラリーマン。この町それ自体のような大企業で働く人たちの腹を満たす

短編小説 『怠惰なりんご』

 あら、それはごめんなさい。でも、わたくし、りんごはとても嫌いなの。いいえ、味の好き嫌いじゃないわ。そうじゃなくて何て言ったらいいのかしら……そう、その存在がね、わたくしと相容れないのよ。あなたも褒めてくださったでしょう、年老いても衰えないわたくしのこの容姿。ええ、このスタイルを維持するために、どれほどの努力が必要か、あなたにも分かり初めて来た頃かしら? 何もせずとも、つやつやと張りがあった時期を過ぎて、些細な不摂生がすぐに肌に出る年頃。そうなって初めて、皆、わたくしに気づく

短編小説 『乗り物のりんご』

 馬と牛なんて可愛くない。おじいちゃんもおばあちゃんも、可愛いほうがいいに決まってるよ、ねえ、ミコもそう思うでしょ——そう娘が主張をし、まだまだ赤ん坊のミコも「あーうー」とそれに同意したので、我が家の仏壇にはりんごのウサギが並ぶ危機に見舞われたのだった。  都会はどうするのか知らないけれど、田舎のお盆はちょっとした行事で、迎え火も焚けば送り火も焚く。当然、キュウリの馬とナスの牛も用意して、「どうぞ早くいらっしゃってください、それからゆっくりお帰りください」とご先祖様にお祈り

短編小説 『りんごの段ボール』

「な、何してるんですか!」  そのオイルをたっぷり染みこませたハンカチに、ライターの火を近付けようとした、その瞬間だった。俺の腕を男が掴んだ。転がったライターが、段ボールの「りんご」の文字を焦がし、驚いたホームレスが悲鳴を上げて這いずり出した。その段ボールでできた寝床は彼の住処で、俺はそれに火をつけ、ホームレスを殺そうとしたのだった。駅の通路の片隅で、ひっそりと生きるその男を——長らく、俺の心の支えだったその男を。  思えば、くだらない人生だった。くだらなく、無駄な42年

短編小説 『生き残ったりんご』

 『たっぷり太陽を浴びて育ったりんご』という手書きの文字に心惹かれ、あなたはりんごを一つ、買い求める。後先考えずにかじりつく。思ったほどには汁気なく、酸っぱくもなければ甘くもない。心なしか皮も固い。期待した果実はこれじゃない。  浮かれた自分に苛立って、あなたは何度も舌打ちをする。けれど、食べるのはやめられない。もったいなくて、悔しくて、口の動きは加速する。歩きながら、りんごをかじる中年女に、バス停の中高生がくすくす笑った。あなたは意にも介しなかった。もし、あの子が生きてい

短編小説 『りんご味の飴』

 手のひらに乗せたそれを、小首を傾げながら君は差し出し、僕は黙ってそれを受け取る。透明なプラスチックに包まれた、透明な飴。初めて出会ったあの春の日も、君は同じ仕草で同じ飴を差し出した。りんご味だよ、とそう言って、同じくらい澄んだ瞳で僕を見据えた。僕は照れて言葉に詰まって、りんご味だね、と繰り返した。甘く溶けていく小さな粒は、確かにりんごの味がした。  思えば、僕らは交わるはずのない人種だった。僕が群れの中で大人しく生きるシカなら、君は群れないトラだった。周りに合わせ、生きて

短編小説 『りんごと子猫』

 玄関に置いた買い物袋から、りんごが一つ、転がった。あっと思う暇もなく、すかさずリンが飛びかかる。鋭いツメが赤を裂く。慌ててリンを追いやると、お手本のようなひっかき傷。もう、だめでしょ、と呟くうちに、傷は茶色く変色している。  リンは、実家がもらった猫だった。何でも近所の猫が脱走し、すぐに発見・保護したが、そのうちみるみる腹が膨れ、子猫を三匹産んだらしい。これ以上は飼えないということで、一匹がご近所さんに、二匹がうちの実家にもらわれた。そしてそのうちの一匹が、うちにやってき

短編小説 『仏様の小さなりんご』

 仏様のりんごだからね、と祖母は優しく私を諫めた。もう五十年も前のことだった。祖母の庭にはりんごの木があり、その木は毎年夏になると、赤ん坊の握りこぶしくらいの小さなりんごを実らせた。  実ったりんごを売るわけでもない、それはただの庭木の一本だった。だから、まったく実らない年もあったし、運良く実ったとしても、ほんの一つ、二つというものだった。それを私はもごうとしたのだ。その薄く色づいた実の誘惑に、人間の本能に従って、しゃくりと囓ったときに溢れる汁、そんな想像まで携えて。  

短編小説 『青いりんごと、赤いりんご』

 他の子の木には青りんごがなるというのに、その子の木には赤いりんごがなるのだった。  それがなぜかは分からない。けれど、その子がどれほど努力をしても、肥料を与え、剪定をしても、りんごは赤々と実ってしまう。その子はそれが恥ずかしく、りんごを隠すようにした。言い訳したり、認めなかったり、ときには嘘さえついてみたが、りんごの色は変わらない。変わらないので、とうとうバレた。噂は瞬時に行き渡った。あいつのりんご、赤いらしいぞ。私、以前からそうじゃないかと思ってたのよ。赤いりんごなんて

短編小説 『話すりんご』

 りんごが話せるなんて知らなかった、と驚くと、りんごは少し呆れた顔をして「話そうと思ってくれるなら、何とだって話せるよ。いつだってそう」と言った。さっぱりとした口調だった。そんな態度に好感が持てた。だから、私は必要以上に頷いて「そうだよね」と繰り返した。 「これが人間同士でも、同じ言葉をしゃべっていても、私と話そうと思ってくれない人とは話せない。そうだ、そういうことだよね」  りんごは笑って同意した。 「そうそう、りんご同士でもそうなんだから、人間とりんごじゃ、無理もな

短編小説 『雪山のりんご』

 こんな雪山にあるはずがないと分かっていながら、それでもその赤い実を捥(も)いだせいか。気がつくと、目の前には宿の暖かな光が灯り、戸口のガラスに人影が映った。 「あらあら、こんな寒い中、よくお越しで。どうぞ、中へお入りください——なんてね」  いたずらっぽく笑ったその女性の顔を見て、僕はやはりと腑に落ちた。それは僕の彼女だった。ずっと会いたいと願い、山をさまよい探し回った、その彼女が僕の目の前にいたのだ。 「どうしたの、そんな怖い顔をして。寒くて表情筋まで凍り付いちゃっ

短編小説 『偽物のりんご』

「本物なんてさ、要らないわけよ」  男はどこか得意げにそう言った。 「いまの世の中、そのものなんて必要ないわけ。オリジナルが一つあれば、それをコピーすればいいわけだからね。例えば、君のそのりんごジュースだって、ホントのりんごジュースじゃない。砂糖と酸味料と香料の混じった、りんご味の飲み物だ。だろ?   世の中にはそういうものが溢れてる。普通の人は知らないかも知れないけど、俺はそういう仕事をしてるからさ。知ってるんだよ、りんごも、ぶどうも、いちごも、香料の組み合わせ次第で作

短編小説 『りんごの毒』

 誰にでも、心の支えというものがあると思う。  例えば、それは家族とかペットという存在だったり、買い物や映画鑑賞という趣味だったり、人によっては朝、玄関を出るときは右足から、みたいなジンクスだったりもするだろう。家族のためだから、休日には思いっきり好きなことが出来るから、今日はラッキーアイテムを身につけてるから、だから頑張れるはず——そうやって人は、楽しいことばかりではない今日を乗り越える。  そんな心の支えが、私の場合は仕事帰りに手に取る、一つのりんごだというわけだった