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短編小説 『りんごと子猫』

 玄関に置いた買い物袋から、りんごが一つ、転がった。あっと思う暇もなく、すかさずリンが飛びかかる。鋭いツメが赤を裂く。慌ててリンを追いやると、お手本のようなひっかき傷。もう、だめでしょ、と呟くうちに、傷は茶色く変色している。

 リンは、実家がもらった猫だった。何でも近所の猫が脱走し、すぐに発見・保護したが、そのうちみるみる腹が膨れ、子猫を三匹産んだらしい。これ以上は飼えないということで、一匹がご近所さんに、二匹がうちの実家にもらわれた。そしてそのうちの一匹が、うちにやってきたというわけだ。

 子猫だからなのかは知らないが、リンのツメはとても鋭い。まるで小さなカミソリのように、痛みも与えず、触れたものを切り裂く。紙でいつのまにか指が切れている、あの感覚に近いかもしれない。初め、抱き方が分からずに、引っかかれたことがある。

 傷のりんごをコンロ脇に置き、私は買ってきたものを片付けた。納豆に豆腐、鶏肉、豚肉、小松菜、長ネギ、それから子猫用のキャットフード。ペットコーナーなど、足を踏み入れたこともなかったが、フードだけで種類があることに驚いた。乾燥タイプ、半生タイプ、お魚味に、お肉味、子猫用に成猫用——。

 その光景が以前見た、どこかに似ているという考えは、頭の中から追い出した。私が見ているのは、飼うことになった子猫に与える食べ物だと、自分にそう言い聞かせた。

 結局、フードは元の飼い主が食べさせていたのと同じものを購入し、あとは砂や玩具を買い足した。ネズミの形をしたその玩具は、リンの好みにはまったようで、それからしばらく遊んでいるのを、私はぼんやりと眺めていた。猫はみんなこんなものが好きなんだろうか、あれがネズミの形をしていなければ、リンは見向きもしないのだろうかなどと、そんなどうでもいいようなことを思いながら。

 気づけば、夕方になっていた。日が落ちるのが早くなってきたこの頃は、ぼうっとしているとすぐに夜になってしまう。夜になって、朝になって、また夕方になって夜になって——無為な時間の繰り返しの中を、生きているような気持ちになる。抜け出せない時間の環。いつまでも同じ景色の続く人生——。

 暗い部屋に、携帯電話の画面が明るく光り、友人からのメッセージを表示した。何でも相談してきた、地元の友達。私が子猫を飼い始めたということを、両親から聞いたらしい。当たり障りのない文面で、今度会わせてね、と書かれている。もちろん、と返信しながら、そんな日が来るだろうかということを私は疑った。

 私たちが最後に会ったのは、田舎の大きなショッピングモールだった。私たちには——いや、私には目的があった。数ヶ月後、生まれてくる赤ちゃんのものを揃えること。友達はそれに付き合ってくれた形で、私たちはたくさんのベビー用品を見たのだった。服におむつに、玩具、それにベビーフード。

 追いやる間もなく、思い出が脳裏に浮かび、私は唇を噛んだ。今日見た、たくさんのキャットフードが並ぶ棚は、あのとき見たベビーフードの棚に似ていたのだ。すりりんごから、ほうれん草ペースト、パスタのようなものまで、どれを選んでいいか分からないほど、そこにはたくさんの種類が置いてあった。ミルクから離乳食、大人と同じような食べもの——こうやって赤ちゃんは大きくなっていくのか、と私は不思議な感動を覚えたのだ。その過程を、私はこれから経験していくのだと。

 けれど、そうはならなかった。

 すっかり暗くなった部屋の片隅で、リンの瞳が光っている。私は鈍い動作で電気をつけ、買ってきたばかりのリンの餌を皿に入れた。子猫用の半生タイプ。匂いを感じ取ったのか、リンが甘えた声で鳴く。思い出してしまった後では、子猫の声は赤ん坊の泣き声に似ている。

 亡くなった小さな命は、夫との絆を脆くも壊し、私は一人に戻った。三人だったはずの、たった一人。それは寂しいとか、悲しいではない、ただの空虚だった。空虚なまま、けれど私は生きていかなければならなかった。そんな娘を、両親は心配してくれた。半ば強引に子猫を私に押しつけたのも、きっとそのためなのだろう。たった一人が、一人と一匹になれば、空虚も埋まると考えたのか。

 皿を綺麗に舐め終えたリンが、満足そうにみゃあと鳴く。ぐるぐると喉を鳴らし、私の周りを一周すると、部屋の隅へ戻っていく。

 猫は猫、子供の代わりになるはずもない。立ち上がり、皿を洗いながら、私は思う。愛してるとか、愛してないとか、そういう次元の話じゃない。子供と猫は、まるで別の存在だ。

 それでも——リンが傷つけたりんごを手に取り、ややあって、私はそれを切り分けた。子猫のリンは大きくなる。子猫ではなく、成猫になる。人間よりも早い時間の流れで、いつか私の寿命を追い越していく。

 そんなリンを目印に、この時間の繰り返しから、私は抜け出すことができるかもしれない。リンの尻尾を追いかけていくうちに、再び時間を進むことができるのかもしれない。リンは私の手を、りんごを、あの鋭いツメで傷つけて、そうして私に悟らせるのだ。前に進むことの意味を、傷は癒えていくことを。

 食べ物の気配を感じたらしい。膝の上に乗ったリンに、私は剥いたりんごを近付けてみた。すんすんと、リンはそれを嗅ぐ。そして、ぷいと顔を背けてしまう。

 リンがひっかいたから、食べてるんだからね——と、猫に通じるとも思わず、私は言う。今日食べるつもりじゃなかったのに、サラダを作るつもりだったのに、と。リンのほうもまったくそれを無視するけれど、ふと窓に映った私の口角は、ほんの少し上がっている。少なくとも今、この瞬間、そこに空虚は見つからない。次の瞬間、虚しさは必ず戻ってくるとしても。

 それでもいつか、と私は思う。そう思えるようになる日まで。

 りんごを食べる私を、リンがじっと見つめている。そのリンに向かって、私は今度はしっかりと微笑んで見せた。

 『りんごと子猫 完』


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