短編小説「ーーあと、5分だけ」
ちいちゃんはちっちゃいから、ちいちゃん、ってお名前にしたのよ。
ママはちいちゃんのほっぺたに、自分のほっぺたをくっつけて笑った。
ママのほっぺはつるつるで、それでいてとっても柔らかくって、ちいちゃんはママが大好きだった。
でも、ちいちゃんはもうこんなに大きくなったから、ちいちゃんじゃなくて、おっきいちゃん、かな?
パパがちいちゃんの反対側のほっぺたに、自分のほっぺたをくっつけて笑う。パパのほっぺはおひげでざらざらしていて、タバコの匂いがぷうんとして、ちいちゃんはパパが大好きだった。
パパとママに挟まれて、あのね、あのね、ちいちゃんはね、とちいちゃんはくすぐったそうに笑って、胸に抱いたうさぎのぬいぐるみを撫でた。
このうさぎちゃんはね、とってもふわふわしてるでしょ? だから、ふわちゃんってお名前にしたのよ。
知ってるぞ、知ってるわよ、とパパとママは同時に言うと、うさぎごとちいちゃんを両側から抱きしめた。
もう、やめてよーと、ちいちゃんは声を上げて笑って、パパとママも楽しそうにくすくすと笑った。
🐇
ちいちゃんは病院で生まれたとき、本当に小さかった。それもそのはず、ちいちゃんはママのお腹に本当なら10カ月いないといけないところを、8か月で飛び出してきてしまったのだ。
きっとパパやママに会いたくて、急いで出てきちゃったのね、とおばあちゃんはそのときのことをちいちゃんにお話してくれた。だからちいちゃんはそれからしばらくの間、病院にいなくちゃいけなかったのよ、と。
パパとママはそんなちいちゃんを心配して、何か自分たちにしてあげられることはないかと悩んだ。そうして、2人がちいちゃんのために贈ってくれたのが、この白くてふわふわの、うさぎのぬいぐるみだった。
だから、このぬいぐるみ――ふわちゃんは、ちいちゃんが生まれたときから一緒にいる、大親友だった。それからちいちゃんが病院から退院したあとも、ふわちゃんはパパとママのいるおうちに一緒に帰って、夜も必ず抱っこして眠った。
パパとママの間にちいちゃんとふわちゃんが眠る――。夜中にふと目を覚ましてしまったときには、ちいちゃんはちゃんとみんなが並んでいることを確かめた。
ぐうぐう、とパパが大きないびきをかいて、すうすう、とママが可愛い寝息を立てて、ふわちゃんは――ふわちゃんはぬいぐるみだから、暗闇の中でも赤い色のおめめをぱっちりと開いていたけれど、そうやってみんなが一緒に眠っていることを確認すると、ちいちゃんは、また安心して夢の中に戻ることができた。
ちっちゃく生まれたちいちゃんは、パパとママの愛情で、とっても甘えん坊な女の子に成長した。
ちいちゃんはふわちゃんを片時も離すことなく抱きしめていて、できればふわちゃんだけじゃなくて、パパとママにも一日中、一緒にいてほしいと思っていた。
だから、ママのつくったおいしい朝ご飯をみんなで食べ終わって、それからパパとママが、そろそろ幼稚園へ行きましょう、と立ち上がっても、ちいちゃんはすぐには行きたがらなかった。
あと、5分だけ。
ちいちゃんはそう言って、パパとママの間にぎゅうっと挟まった。すると、パパとママは顔を見合わせて、この甘えん坊さんめ、と笑って許してくれる。
子どもって、大人の口くぜをすぐに覚えちゃうわね。
ママは笑って、可愛いイチゴの髪飾りのついたちいちゃんの頭をなでた。
5分だけ、ってママの口ぐせだろう? 俺はそんなこと言わないよ。
あら、パパだって言ってるわよ。朝も、そう言ってなかなか起きないじゃない。ねえ、ちいちゃん?
そうだったかなあ?
そうだよ、とちいちゃんは笑って、パパのぱりっとしたシャツに顔をすりつけた。
あと5分だけ、と言ったあとの5分間は、この世で一番幸せな時間だと、ちいちゃんは思っていた。
24時間しかない1日の中から、その5分は特別にはみだして、ちいちゃんの1日は24時間と5分あるみたいだったからだ。
甘えん坊のちいちゃんは小学校へ行く年になった。いくら甘えん坊のちいちゃんでも、小学校へはさすがにふわちゃんを抱っこしていくわけにいかなくて、ちいちゃんは寂しくなった。
それに、ちいちゃんが学校へ行くようになってから、ママは仕事を始めて、家にいないことも多くなった。
それに、パパも仕事が忙しくて遅くまで帰ってこなくなってしまったので、家族3人が揃うのは、たまの休日くらいになってしまった。
だから休日の朝には、ちいちゃんは早起きをしてパパとママを起こした。
パパ、朝だよ、起きる時間だよ。
ちいちゃんがパパとちゃんとお話したのは、もう2週間も前のことだった。だから、今日こそは、この甘えん坊さんめ、とパパに抱っこしてもらって、ほっぺをくっつけて一緒に笑いたかった。
けれど、仕事で疲れているパパはごろんと寝返って、うーん、あと5分だけ、と言いながらまた眠ってしまう。だから、ちいちゃんは離れたところで眠っているママの体を揺さぶってみる。
ママはこのごろ忙しくて時間がないせいで、ちいちゃんと一緒にご飯を食べる暇もなかった。
だから今日は、この甘えん坊さんめ、と笑われても、お母さんのお膝でおしゃべりしながら、ごはんを一緒に食べたかった。
ママ、朝だよ、今日はとってもいい天気よ。
でもやっぱり仕事で疲れているママも、うーんと唸って、あと五分だけ、と言ってまた眠ってしまう。
もう、2人とも、お寝坊なんだから。
ちいちゃんはふわちゃんを抱っこしてため息をつく。でも、パパもママも仲良くおんなじに、あと5分だけ、なんて言うのが少しおかしくって、ちいちゃんもひとり言で、あと5分だけ、とつぶやくとふわちゃんと一緒にもう一度眠ることにした。
夢の中では、パパとママは昔のようにちいちゃんにほっぺをくっつけて笑いあっていて、とても幸せだった。だから、そのうちに目を覚ましたママが、ちいちゃん、朝ですよ、起きてちょうだい、と言っても、ちいちゃんはふわちゃんを抱いたまま、思わずむにゃむにゃと寝返りを打った。
ううん、あと、5分だけ――。
🐇
そんなある休日の朝、ちいちゃんはパパとママに起こされた。
あれ、今日はどうしたの?
眠たい目をこすりながら起きたちいちゃんに、パパはにっこりしてちいちゃんを寝床から抱き上げた。久しぶりに見る、パパの笑顔だ。
最近一緒にいられなかったから、今日は、ちいちゃんの好きなところに行こう。どこでもいいよ。
本当?
ちいちゃんはママを見た。
ええ、今日はちいちゃんのために、お仕事もお休みにしたの。
ママも、笑ってうなづいた。
やった! それじゃ、遊園地に行こう!
ちいちゃんは急いで着替えると、ママのつくってくれた朝食を食べ、パパの運転する車に乗って、ふわちゃんも忘れずに抱っこして、遊園地へ向かった。
この遊園地は、ちいちゃんの学校の友達が家族で行ったことを聞いて、行ってみたいと思っていたのだ。
遊園地は最高だった。ちいちゃんはママと木馬にまたがり、パパとジェットコースターで思い切り叫んだ。
それからママと大きな機関車に乗り、パパと空を飛ぶゾウと、やっぱりパパとお化け屋敷にも入った。
お昼は、いつもなら虫歯になるからダメって言われる甘いケーキをデザートに食べて、パパのバニラアイスと、ママのチョコレートパフェまで分けてもらった。
ねえ、今日は特別なの?
ちいちゃんは何度も何度もパパとママにたずねた。そのたびにパパとママは顔を見合わせて、少し笑って、ちいちゃんは2人にぎゅうっと抱きついた。ちいちゃんはとっても幸せだった。
最後はあれ、観覧車がいい!
もうそろそろ帰ろうか、パパがそう言ったとき、ちいちゃんはゆったり動く観覧車を指した。今までの乗り物は、パパかママかどちらかとちいちゃんで楽しんでいて、家族3人で乗ったものがないことに気づいたのだ。
だから、パパとママが大好きなちいちゃんは、最後は絶対に3人で乗りたいと思ったのだ。
どうする? というように、パパとママが顔を見合わせる。けれど、ちいちゃんがお願い、と2人に抱きつくと、2人とも笑って、この甘えん坊さんめ、と言ってくれた。
この観覧車は約10分で1周します、とゴンドラの扉を開けてくれた係員のお姉さんが、にっこりと笑ってそう言った。
じゃあ、5分後にはてっぺんにつくね。
ちいちゃんはゴンドラに乗りこむと、わくわくしながら外を見た。観覧車はゆっくりと、ちいちゃんたちを空へ連れていく。
地上の木馬やジェットコースターの音が遠ざかって、まるでこの世界には、ちいちゃんたちの乗っているゴンドラのほかはなくなっちゃったんじゃないかと思うくらい、あたりは静かになった。ちいちゃんの隣にはママが座って、向かいには1人でパパが座っている。パパもママも無言で、ときおり観覧車の部品がギイギイと鳴る音と、外を吹く風の音がした。
もうそろそろ頂上だな、とパパが言って、窓の外を指差す。たくさんの家の向こうに、夕日が沈んで、ゴンドラの中は一気にオレンジ色に染まってゆく。
きれいね、とママがつぶやいた。少し疲れたようなママの横顔を眺めて、ちいちゃんは夕日なんかよりもママのほうがきれいだと思った。
ねえ、みんなでこっちに座ろうよ。
ちいちゃんはふと思いついて、ママのほうに体を寄せると、パパを呼んだ。
座れるかなあ、とパパが言うと、ママは、ゴンドラが傾いて危ないんじゃない? と言った。
でも、3人で座りたいの。ほら、頂上に着いちゃうよ。
ちいちゃんが言うと、パパはママとちらりと視線を交わし、この甘えん坊さんめ、と言って立ち上がる。その反動で、ゴンドラが一瞬ぐらりと揺れる。その揺れが収まってから、パパはそうっとちいちゃんの隣に座った。
ほら、大丈夫だったでしょ?
大好きなパパとママに挟まれて、ちいちゃんは得意げに言った。そうね、ママがちいちゃんの手をそっと握って、それからパパもちいちゃんの反対側の手を握る。ちいちゃんはふわちゃんが落ちないように、ひざの上に寝かせた。
そのままゆっくりと、ゴンドラは頂上に達した。
パパとママはちいちゃんの手を握ったまま、何も言わずに黙っている。頂上を過ぎると、ゴンドラは静かに降りてゆく。
今日は楽しかったな。ちいちゃんは幸せがいっぱいに詰まった空気を吸い込んだ。やっぱりちいちゃんはパパとママが大好きで、そしてこんな時間がいつまでも続けばいいのに、と思う。
すると突然ぽたりと水滴がちいちゃんの手に落ち、ちいちゃんはびっくりしてママの顔を見た。
ごめんね、ごめんね、ちいちゃん…。
ママがどうしたの? 押し殺した声で泣くママに、ちいちゃんは訊いた。
ちいちゃん、パパたち、離婚することになったんだ。
ママの言葉を引き取るように、パパが言う。
でも、パパとママが別れても、ちいちゃんはパパたちの大事な宝物だからね。それだけは忘れないでほしいんだ。
パパの目からも涙が落ちて、ちいちゃんは突然のことにわけがわからずに、パパとママの顔を交互に覗き込む。
そのとき、ガタンとゴンドラのドアが開き、係員のお姉さんが、足元に注意して下りて下さあい、と乗る時と変わらない笑顔で言うのが聞こえた。
そのドアを開けないで。
幸せな夢から覚めたくなくて、ちいちゃんは思わず立ち上がり、叫んだ。その拍子に、ひざの上のふわちゃんがころんころんと床に落ち、ドアから外へ転がり落ちてしまう。ああっ、とちいちゃんは声を出す。
ふわちゃんがゴンドラから落ちて、さっきまでここに充満していたはずの幸せが逃げてしまったような気がした。
パパとママが大好きなちいちゃんの幸せが、このゴンドラを降りたら、もう永遠になくなってしまう、そんな予感にちいちゃんは怯えた。
お願い、あと、5分だけ――。
ちいちゃんは思わずそう叫んで、ぎゅっと目を閉じた。ちいちゃんがそう言えば、パパとママはいつでも許してくれる。この甘えん坊さんめ、そう言って、いつもみたいに笑ってくれる。
だからあと、5分だけ、お願い、あと5分だけ――目を閉じ、呪文のように唱え続けるちいちゃんの耳に、いつものパパとママの、この甘えん坊さんめ、という声が聞こえた。そして、きゅるきゅると時間が音を立てて巻き戻った。
もうそろそろ頂上だな、とパパが言って、きれいね、とママがつぶやく。ちいちゃんは固く閉じていた目を開けた。
ちいちゃんの膝の上には、外に落ちてしまったはずのふわちゃんが、ちゃんと乗っていて、ちいちゃんはほっと息をついた。
どうしてこんなにほっとしてるんだろう? ちいちゃんはふと、首をかしげて少し考える。それは何か大切なことだったような気がするけれど、けど、今はちいちゃんとパパとママが3人でいることのほうがずっと大事だ、とちいちゃんは思った。
ねえ、みんなでこっちに座ろうよ。
ちいちゃんは、ママのほうに体を寄せると、パパを呼んだ。
座れるかなあ、とパパが言うと、ママは、ゴンドラが傾いて危ないんじゃない? と言った。
でも、3人で座りたいの。ほら、頂上に着いちゃうよ。
ちいちゃんが一生懸命に言うと、パパはママと驚いたようにちらりと視線を交わし、この甘えん坊さんめ、と言って立ち上がる。その反動で、ゴンドラが一瞬ぐらりと揺れ、その揺れが収まってから、パパはそうっとちいちゃんの隣に座った。
ほら、大丈夫だったでしょ?
大好きなパパとママに挟まれて、ちいちゃんは得意げに言って、ママの手を握り、もう片方の手でパパの手もしっかりと握る。ふわちゃんはちいちゃんの膝の上で静かにしている。
そのままゆっくりと、ゴンドラは頂上に達した。
ちいちゃんはパパとママの手をしっかりと握ったまま、何も言わずに黙っている。頂上を過ぎると、今度はゴンドラは静かに降りてゆく。
今日は楽しかったな。ちいちゃんは幸せがいっぱいに詰まった空気を吸い込んだ。やっぱりちいちゃんはパパとママが大好きで、そしてこんな時間がいつまでも続けばいいのに、と思う。
そのとき、突然ちいちゃんの手に水滴が落ち、ママが泣き出す。
その瞬間、ちいちゃんはこの先に起こることを、知っていることに気がついた。
パパとママは離婚するんだ、とパパが言う。係員のお姉さんがゴンドラのドアを開ける。立ち上がったちいちゃんの膝からふわちゃんが転げ落ちる。ちいちゃんは、あと五分だけ、と叫ぶ。そして、時間はまた5分だけ巻き戻される――。
そして、パパがまた、もうそろそろ頂上だな、と窓の外を指差し、ふわちゃんはちいちゃんの膝の上に戻っている。幸せの空気は、まだちゃんとここにある。
ちいちゃんはそれから何度も何度も、その5分間を繰り返した。
いつかは巻き戻らなくなっちゃうのかな、と何度目かの観覧車の頂上を過ぎたちいちゃんは思った。
パパとママはまだ幸せそうで、この幸せがあと5分で壊れてしまうことなんて、知らないみたいだった。でも、ちいちゃんが、あと5分だけ、と言わなければ、この幸せは本当はなかったもののように、ふっと消えてしまうに違いなかった。でもちいちゃんは、そんなことは望んでいなかった。
だって、ちいちゃんはパパとママが大好きだった。パパとママと、ちいちゃんとふわちゃんで、ずっと一緒にいることが、ちいちゃんの幸せだった。
ちいちゃんは目を閉じて、パパとママの手をしっかりと握って、何十回目かの幸せの空気を胸いっぱい吸い込んだ。
ちいちゃんは、ママの涙が手に落ちる瞬間を、もう十分知っている。だから、ちいちゃんがしなきゃいけないことは、その前に小さな声でつぶやくことだけだった。
あと5分だけ――あと5分だけ、と。
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