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小説「走る、繋ぐ、生きる」第9話

【歩子@8−9マイル, Brooklyn】

歩子は、ゼッケンの上に、ローマ字で“AYUKO”と印刷された紙を安全ピンで留めていた。お陰で、沿道の人々が、大声で、「ゴー!アユゥコ!」と、日本人以外は、呼びにくいであろう彼女の名前を、独特の節をつけて呼んでくれる。

しかし、歩子の一番の目的は、ブラウン夫妻に、自分を発見してもらうためだった。

進路を右に曲がると道幅が狭くなり、沿道の人たちとの距離が一気に近づいた。

緑に白地で”Lafayette Ave”と表記された看板を見つけ、歩子の心臓は飛び跳ねた。

いよいよだ。

動画で見る限り、ブラウンご夫妻は進行方向左手側で応援していると思うけど、確信はない。

歩子は、少しペースを落とし、左右をキョロキョロと見渡しながら、進んだ。

間も無く、9マイルに差し掛かろうとした時、歩子の目に、ブラウン夫妻の姿が飛び込んできた。動画を繰り返し観て、記憶した顔。
ミスターブラウンの両手には、写真フレーム。間違いない。

ジョン、見て! あなたのパパとママよ。

心臓にそっと手をおいた。

ランナー達を避けながら、ブラウン夫妻の方向へと向かう。

二人の注意を向けようと右手を上げた。

緊張で自分の顔が強張るのが分かる。

あ、ミセスブラウンが、こっちを見た。気づいた。

勇気を振り絞って、一生懸命、笑顔を作った。

しかし、歩子の勇気は一瞬のうちに萎んだ。

歩子を見つけてしまった二人の瞳が驚きと戸惑いで揺れ、凍りついていたからだ。

咄嗟に、右手を下ろし、「ごめんなさい。」と言うようにお辞儀をし、逃げるように立ち去った。

どうしよう。

私、取り返しのつかないことをしてしまった。
傷ついていた二人をもっと傷つけたんだ。

自分の馬鹿さ加減に腹が立った。

そりゃそうだよね。私が会いに行くって、ブラウン夫妻からしたら、「私、あなたの息子さんが心臓くれたお陰で、こんなに元気にマラソン、走っちゃってまーす!」って、見せつけているみたいなもんだもんね。
それも、ジョンの夢を奪うみたいに、当てつけるみたいに。

メールの返信が来なかった事も、会いたくないって意味だって、なんで気づかなかったの?

私は、馬鹿だ。大馬鹿ものだ。

歩子は、自分を責めても責めたりない気持ちに襲われた。
そして、心の奥底に封印していた自分の本当の気持ちに辿り着いた。

なぜ、私は気づかなかったのか。気づきたくなかったのだ。
拒否されていることに。

なぜ、私は彼らに会いに行ったのか。

私は赦されたかったのだ。

ジョンを彼らに会わせることで、彼らから、赦してもらいたかったのだ。

あなたが悪いんじゃない。生きて良いんだよ、と。

それこそ、エゴだ。

私の心の問題など、彼らには全く関係のないこと。
そんなことを彼らに期待し、願う自体、それこそエゴだ。

だけど、私の命は他人の不幸の上に成り立っているという罪。

自分の娘の命さえ助かれば良いというように、
誰かの心臓を待ちわびた両親の愛という罪。

その罪から、私は解放されたかったのだ。

ごめんなさい。

歩子は後悔と罪悪感で、押し潰されそうだった。

涙を抑えるのはもう無理だ。

ああ、沿道の声援が、鬱陶しい。
もう、お願い、そっとしておいて。私の名前を呼ばないで。

両手で耳を押さえた。

歩子の足は、11マイル点前で、止まってしまった。

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