見出し画像

長い事勘違いしていたこと。

発達障害は人により症状も重さも千差万別だ。
特性も大まかなものはあっても、あてはまるものとそうでないものもある。

彼らと共に過ごしてきてより理解しなければと感じたことは特性は全てに対しての免罪符とはならないということだ。

配慮や理解はある程度必要ではある。が、特性から生じた二次的なもの、例えば性格や考え方に関しては自身で自分を理解し修正をし続けていく必要があると最近思う。

落ち着いて話が聞けない、ことでクラスに馴染めない。落ち着くことが難しいことを理解してもらうことはある程度できても、そのことでクラスメートと溝が生まれてしまってもそこは個人の問題となるだろうなと思う。
クラスメートにどうにかしてくれと頼める範囲を超えてしまっている。

嫌なものは嫌だし、迷惑だと感じる人が間違っているわけでもない。

歩み寄りとなるが、こちらが特性なんだからしょうがないでしょ、と歩み寄らなければ相手もまた理解されたいばかりなのでは理解してくれない。

そこを私は今までうまく咀嚼できてなかった。
全部を一纏めにして考えてしまっているところがあるんだとわかった。

確かに特性から生じるトラブルはある。むしろ絶えない。が、それはこちらの問題なので配慮や理解ではなく本人とその周りがどうすることでトラブルにならないかを共に考え話し合い、馴染み方、社会での立ち回り方を教えていくことがやはり必要だと感じる。

人の多いところは苦手で周囲の音や匂いが気になって困っている、としたら人の多いところを一生避けて生きさせるのか。自分でできる範囲でいいから苦手なものに対して行動していく力は必要だ。
ギリギリまで社会と自分との溝を攻めていくことは学んでいくほうがいい。

人間関係が下手くそな場合が多い娘にしてみれば、人付き合いは難しく、苦労も多いだろう。だが、人里離れた山の中で生活でもしない限りは生き方を共に考えていきたいと思う。

人が何を考えているか考えてもわからないことはこの際おいておいて、揉めたらどうするか、苦手な人と付き合わざるを得ないときどうするのか、嫌なことをされたとき、なんと言えばいいのか。そういうようにパターン化して仕組みを作り覚えていくことも出来るようにならないとこの世界を生きるのは難しいだろう。

何をどうやったって相容れない世界もある。
でも、いつか彼等も大人になり一人で生きていくことになる。生きる力、それは今からでも教えてあげられるはずだ。

人と生きていればいい思いもすれば嫌な思いもする。いい人もいればそうじゃない人もいる。
傷つけて傷つけられる。
自分に卑屈にならず愛して生きる方法を、私は彼等と共に見つけたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?