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「BLACK BIRD」ショートショート


「隣、いい?」

 ホテルのバーのカウンター。

 隣に座ってきたのはいかにもモテそうな雰囲気のある若い男の人だった。

「一人?」

「本当は二人のはずだったけど、一人になっちゃった」

 私はそう言って笑って見せた。

 卒業旅行。

 本当ならば、この山の中にある静かなホテルで彼と二人、温泉に入ってのんびり過ごしているはずだった。

 一週間前、彼は浮気をした。

 就活が大変だったのはわかる。

 私が先にすんなり内定して、ことごとくお祈りメールをもらっていた彼が焦っていたのもわかる。

 だからといって浮気を許せるほど、私の心は広くなかったのだ。

 せっかく予約が取れた人気のホテル。

 もったいないと思い、一人で来たのはいいものの、周りは山のため温泉に入る以外にやることはなかった。

 一人での寂しい夕食を終え、早速来たことを後悔しながらバーで飲んでいる時だった。

「……浮気か。その彼はバカなことをしたものだね」

 私は酔った勢いと旅の恥はかき捨て精神で、その男の人に向かって愚痴をこぼしていた。

「俺だったら絶対浮気なんてしないのに。恋人を傷つけるなんて最低だよ」

「とか言って、彼女とか何人もいそう。絶対モテるでしょ」

「ん……よく言われるけど、俺ってこう見えても一途なんだよね」

「ふーん、怪しい」

「なんだったら、とりあえず試してみる?」

「はい?」

 男の人は私を見つめながら、いたずらっ子のような顔で笑っていた。

「いやいや、会ったばっかりだし、とりあえずとかおかしいでしょ」

「そう? 俺は一目惚れなんだけどな……」

 そう言った男の人の甘えるような表情と甘い言葉が、私の思考をぐるぐるとかき混ぜていた。

 やけになっていたのと寂しかったのとお酒の勢いで、私はふらふらと男の人の部屋についていった。

「本当にいいの?」

 ベッドに横になった私を覗き込む彼。

「とりあえず、でしょ?」

 そう言って笑う私。

「あっ」

 着ていた浴衣の帯がほどかれた。

 そして彼は下着もつけていない私の体を優しく愛撫した。

「ん……」

 彼は優しかった。

 身も心もすみずみまでほぐされてしまった私は彼の優しさに溺れていた。

「……おはよ」

 目覚めると、裸の自分と見なれない天井。

 優しく私を見つめてくる彼と目があった。

「お、おはよう……ございます」

 昨夜のことを思い出して恥ずかしくなる私。

 急いで脱ぎ捨てられた浴衣を拾って袖を通した。

 静かな部屋に、のどかな鳥のさえずりだけが聴こえてくる。

「フッフッフッフッフフッフーン♪」

 ベッドの上で鼻歌を歌いだす彼。

「知らない? BLACK BIRDっていう歌」

 私は首を横に振った。

 鼻歌を歌いながら笑顔で私を見つめる彼。

「あ、あの、すみません、お邪魔しました!」

 私はいても立ってもいられなくなり、逃げるようにして部屋を出た。

「あっ、待って! ねぇ……」

 彼の言葉に止まることなく走った。


 あれから一ヶ月、私は社会人になって慌ただしい日々を過ごしていた。

 仕事を覚えるのに必死で、ただ家と会社を往復する毎日。

 そんな中でもふと、あのホテルでの彼のことを思い出してしまう。

 何も話さず逃げるように出てきてしまったことを、今さら後悔していたのだ。

 ただ一夜を共にした男の人。

 せめて名前だけでも聞いておけばよかった。

 連絡先も聞いておけばよかった。

 もう一度会いたいと思っている自分に、私自身が一番驚いていた。

「あっ」

 新入社員の歓迎会の帰りだった。

 会社の近くの居酒屋で飲んでカラオケに行き、もう一軒と言う上司に終電だからと頭を下げて一人で繁華街を歩いていた。

『BLACK BIRD』

 そう書かれたバーの看板を見つけた。

 忘れもしない、あの人が鼻歌で歌っていた歌。

 あの人のことで知っているのはただそれだけ。

 あれからあの曲を検索し、今では毎日聴いている歌だ。

 イントロの鳥のさえずりが、あの日の朝を思い出させてくれる。

 私と彼を繋ぐ唯一のもの。

 私は引き寄せられるように『BLACK BIRD』のドアを開けた。

「いらっしゃいませ」

 細長いカウンターテーブルが目に飛び込んできた。

 そして私の耳には懐かしい声。

 私はカウンターの一番奥の椅子に腰をおろすと顔を上げ、思いきり笑ってみせた。

「とりあえず、生ビールをお願いします」

「はい」

 彼も嬉しそうに笑っていた。

「どうぞ」

 注いだばかりの生ビールをテーブルに置くと、彼が私を見て言った。

「とりあえず、自己紹介から……」

「ですね」

 私たちはしばらく笑いあった後、とりあえず自己紹介から始めることにした。


          完



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