【映画メモ】ある男【#56】
解説は映画.comさんより
途中までは全然普通の映画です。で、窪田正孝が演じる大祐が亡くなってからストーリーが二転三転していきます。
大祐のお兄さんがこれでもかっていうくらい嫌なやつに描かれているのもいい感じです。嫌なやつなんですけど、不自然でなく、これくらいのレベルで嫌な奴っているよな〜ってレベルで。そりゃこんな家に居たくないよなと自然な流れでストーリーに入っていけます。
柄本明の存在感がすごいです。こういう役をやらせたら、彼の右に出る人はいませんね。なんなんでしょう。目なのかな。雰囲気を纏ってるというか。でも、出てきて話し始めるまでは、そこまでゲスい感じはしないんです。話し始めると、もうほんとに嫌なやつで、でも結構核心をついているというか、単なる嫌なやつじゃないんです。普段自覚しないけど、自分の中にもあるような、見たくない部分というか、そういう嫌な部分を煮詰めたような存在を演じさせたら天下一品だと思っています。話し方とか、声量とか、嫌な感じが絶妙です。
『ダニー・ザ・ドッグ』でも出てきた、家族って何か。そういうことを、さらにえぐってくるような映画です。それに伴って、自分というものの存在を証明することができないということも突きつけられます。自分て何か。自分は自分を自分だと思うし、主張できますが、何が自分であることを証明してくれるのか、何が担保してくれるのか。戸籍は書類です。本当にその戸籍はその人なのか。周囲の人が、その人だと認識していることと、書類の齟齬があったときに何を信じるのか。公には、書類しか役に立ちません。でも、心では、書類なんて関係ないと思います。デカルトさんが言ったように「我思う、故に我在り」自分が自分だと思っていればそれでいいし、相手が自分だと認めてくれていればそれでいいように思います。
元々、ちょっと自我というか、自己存在に疑問を感じなが生きているので、この映画は色々考えさせられました。だって、マンション群とか見て、その中に何百人って人たちが住んでいて、その一人一人に自我があるとか思うとなんか気持ち悪くないですか?日本に1億2千万人ほどの人がいて、その人たちが大金持ちの人もいれば、ホームレスの人もいて、色々学んでいる人もいれば、何も考えずに生きている人もいて、運動している人もいれば、寝たきりの人もいて。自我を軽視するということではなくて、そんなにたくさんの自我が存在していて、複雑に絡み合って、自己主張して、60〜80年くらいで死んで、次の世代に入れ替わって、何のために自我ってあるんだろうとか思っています。もっと思考とかできなくても人って困らないのでは?と思ったり、そうすると文明とかはできないから単なる弱肉強食の世界だったのかなと?思ったり、今みたいに起業が!とか自己実現が!とか言っても数十年で死んでしまうし、生活にお金は必要だけどお金持ちになっても死んだら終わりだし。
自分の祖父母くらいはかろうじて知ってるけど5代前とか全然イメージできないので、自分も死んでしまったら、孫どころか子供が成長したくらいで完全に認識もされなくなって、埋没してしまうでしょう。そう考えたら、自分って何なのか。資産とかは別にして、人間関係は生きている間に認識できる程度の関わりでいいんじゃないでしょうか。嫌な人からは離れて、仲良くできる人とだけ付き合って、何がダメなんでしょうか。全部リセットしたいっていう気持ちはよく分かります。
映画に戻ると、大佑は里枝と子供達にだけ認識されていれば、良かったのでは?と思いました。死んでしまって、書類上、手続き上、バレてしまいましたが、本当は誰だったのかというのを探す必要はあったのでしょうか。里枝が旦那だと認識してして、子供達がお父さんと認識していたなら、それで全部だよな〜。あとは行政上の問題なだけで。まあ、残された人にとっては、その行政上の問題が一番厄介なのかなと思ったり。などと取り留めもなく考えてしまう映画でした。
おわり
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