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なぜ人は生きるのかに答えます

なぜ勉強し、そもそも生きなければいけないのか。

私自身、塾講師として一番この質問を受けてきたと思います。軽い意味ではなく割と重い意味で。

不登校など学校で学ぶことに対して意味を感じない中高生で「Youtube」「投資」で短期的に稼いで、悠々自適な生活を送りたい。小学生でもYoutuberでいましたが…。自分は自分の才覚で「稼ぐことができるのに」、学び、そして生きることに何の意味があるのかという問です。

まぁわかりやすく言えば「このまま自分なんて消えてしまえばいいのに」という感情。

まぁ、誰しも大なり小なり抱いたことがある感情です。

私自身、大学で教育学を学び、この疑問を持っていました。大学で「なぜ人は生きるか」という授業も取ったのですが、結局明確な回答がないままもんもんと過ごす日々が続きました。

「いいようのない感情」

僕自身が変わったのは、多分大津島に行ったときだったと思います。大津島というのは、山口県の周南にある島で、太平洋戦争末期に人間魚雷「回天」の出港地(訓練地)となっていた島です。

確か、回天(レプリカ)が靖国神社にもあったと思いますが。なんというか、こればかりは「見ないとわからない」です。映像で伝わるものもありますが、なんというか…。昔の人は「あはれ」なんて言う言葉を使いましたが、言い得て妙で言語化できない感情があるのだなと思いました。

生徒の最期のことば

もう1つ例をあげましょう。私が塾講師であった最後の年に、不慮の事故で生徒が亡くなるということがありました。ちょうどその日はその子の面談の日で、時間になっても来ないことを不思議に思った私が電話したときに、そうであったことがわかりました。

葬儀の日。お母様が弔辞で「最初は(大学受験なので)塾は辞めて、予備校に行くように勧めた。しかしながら、子どもは頑として今まで通りの塾で受験をするんだと言い、亡くなったその日に面談でお願いをするつもりだった。その矢先だった。」

本当に身につまされるような思いでした。まぁ生きてその言葉を聞きたかったという感情もあるし、あの時こうしていれば…という感情もあった。悔しさもあったし、一方で生徒の葬式に参加したのが塾では私(と上司)だけというのも怒りを通り越して呆れたり(まぁ休日だったので会社員としてはそれでいいかもしれんけどね)、これも言葉にできない体験でした。

「生きる」んじゃなくて「生かされている」

この2つのことから言いたいことで、唯一僕が言語化できるとすれば「自分(たち)が生きるという考え方が間違っている。自分(たち)は生かされているのだ。」ということです。いわば、生命はリレーのようであって、バトンを渡されてしまった。まず、そこを疑問に持たないほうがいい。ゲームで言えば設定のようなもので、設定にあれやこれや文句言ってもしかたないから

しょうがない。走るか。

自分一人で走っているならば止めればいいけど、これは走るのをやめるわけにはいかんな。走っているうちに、自分のできることが見えてくる。自分の役割が見えてくる。結果が出る。そこにつながりができる。「生きがいを感じる」。

これが多分人生の楽しさなんじゃないかなと思います。

多分人生の1/100も楽しんでないんじゃないかな

ということで、そういう質問が来たら僕が返す言葉としては「人生の1/100も楽しんでいないのに何を言ってるのだね」です。お金を稼げば人生楽しいかと言うと割とそんなことはないんじゃないかな?お金は1つのツールであって、むしろ実は買うまでが一番楽しいと僕は思います。ほら、Youtuberとか高級車よく買うじゃないですか。欲しくて頑張るんだけど、別にその後はあんまり触れられないっていう…。むしろその過程が楽しくて人って生きてるんじゃないかなと思うのです。

自分の知らない世界がひらけている。せっかくバトンを受け取ったんだから、見たくても見られなかった人の分まで、もっともっと知らない世界を見てみよう。そのときにはツールとしてのお金が必要な局面もあれば、もしかしたらお金じゃないものが必要な局面もあるかもしれない。成功もある、何倍以上失敗もする。でもその全てが楽しいから人間って生きていられる。私はそう思います。

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