エッセイ・「わたしとコロナ」
最近そろそろコロナ禍に終わりが見えてきた。コロナの感染者が増えてもなんだか以前のような緊迫感はない。大方の予想通り、コロナは第二のインフルエンザと化しはじめている。
だからこそ言えるのだが、わたしはこの数年コロナ禍で困ったことがあまり多くない、たぶん。もちろん、マスクは鬱陶しいし帰省や旅行はしづらくなった。でも、それだけだ。1番きつかったのは実家の猫に会える頻度が落ちたことくらいか。(禁断症状を免れなかった)
元々インドアな性質のわたしは大概必要な時以外はほぼ外に出ない。週に二日の休日はベッドと仲良くしながら、アニメ、漫画、小説を嗜む。それも飽きてきたら、起き上がって小説や絵を描く。さもなくば、平日に買い込んだ食材を用いて一週間の備蓄を一気に料理する。一人暮らししてみて気がついたが、わたしは結構料理が好きだったらしい。だから外食もほとんどしない。友人と食べるのを除けば、年に10回いかないだろう。もともと外に出てイベントに参加したりしない種類のオタクなのだ。
友人とも確かに出かけづらくなった。だが、社会人になってこちら、本当に仲の良い友人としか遊ばなくなったのでそこまで不自由を感じることもなかった。元々遊ぶと言っても月一くらいなものだ。
だから、コロナになって「おうち時間が増えた」と声高に言い始めた時はなんだか居心地が悪かった。だって、わたしの生活はマスク以外ほとんど何も変わっていなかったのだから。多少アルコール臭くなった程度のことだった。
思えば昔からこんな感じだった。わたしは幼い頃から家が好きで、お出かけ好きの母に買い物に誘われると、渋々重い腰を上げていた。ところが出かけてみると存外楽しいので、出かけるのが嫌だったことを帰る頃にはすっかり忘れているのだ。なんという単純さか。
大人になって家を出るまでは、ずっとそんな感じで結構頻繁に出かけていた。嫌なら断ればいいとも思うが、幼い頃からこんな感じなので、もはやルーチンと化していた。母は楽しみを他人と分かち合うことがとても好きな人だった。(母に言ったらきっと否定されるだろうが)だから、誘いを断ればその楽しみを奪うことなる。それは気が引けるというのもあったのかもしれない、と今にして思う。わたしは一人娘である。代わりはいない。
そんな事情もあってか、自分があまり積極的に出かける質でないことに気がついたのはごく最近。社会人になってからだ。
ところで、コロナ全盛の折、居心地の悪さを味わいながらも、ひとつ、いいことに気がついた。それはいつのまにか自分が大人になっている、ということだっだ。自分の機嫌を自分で取れるようになることは、大人になった一つの証拠に思える。昔はできなかったことがいつの間にかできるようになっていたのだ。自分を満たす方法を理解していることは幸福への一番の近道だと思う。
昔は大人になる時には何か大きな心の変化が訪れるのだと思っていた。だが実際には、知らぬ間に大人へとスライドしている。今こうして、大人になったと悦にいっていても、本当はそんなものないのかもしれない。節目などない人生がずっとずっと続くだけ。わたしを含め人はイベントが好きだ。一年間の中でさえたくさんの行事ごとがある。本来平坦で同じものであるはずの人生にそれらは起伏をもたらしてくれる。生きることは死ぬまでの暇つぶしだ。みんないかに楽しく暇を潰すかをずっと悩んでいるのじゃないだろうか。少なくともわたしはそうだ。そういう意味では、今大騒ぎしているコロナすら、何十年か経てば人生を盛り上げる虚飾のひとつになってしまうのかもしれない。
人の最大の敵は退屈なのだから。
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