見出し画像

名もなき病(やまい) №4

夕飯の支度をしていると、義父がすっと台所に入って来た。
「かあさん、アルミホイルどこかな?」
「ああ、ここですよ。はい。」
手渡すと嬉しそうに
「ちょっと使うからね。」
そう言って出て行った。

しばらくするとホイルを返しに戻って来た。
「ちょっと使いすぎちゃったかもしれないな。」
「大丈夫ですよ。買い置きありますから。」
良かった、と嬉しそうに笑った義父は80代だ。
耳が遠いため会話は大変だが、今の私の返事はすぐ聞き取れたようだった。

「アルミホイルでね、財布を包んできたんだよ。」
「財布をですか?」
「しっかり包まないとね。何重にも。だからいっぱい使っちゃったんだ。」
「どうして包むんですか?」
「ん?何回も財布隠してるのに、電波でどこにあるかバレちゃうらしいんだよ。」

隠す?
電波?
バレるって誰に?

一度にたくさんの疑問が浮かんで、どれから尋ねればいいか分からなくなった。

「いろいろなところに財布を隠してみたんだけど、すぐバレちゃうの。」
「誰にですか?」
「俺はいっつも監視されてるんだよ。」
会話は少しずつかみ合わなくなってきていたが、義父は真顔になって続けた。

「いつも見られているのさ。財布は大事だから、電波で察知されないようにアルミホイルで包むんだよ。そうしたら探せなくなるんだ。包んで座敷に隠したよ。」
『だから誰に?』そう思いながら、『ああ、また始まった。』とも思った。
義父は言動が少しおかしい。
いや、最近はだいぶおかしい。

「俺は軍隊にいたからさ。未だに監視されてるんだよ。」
大正生まれの義父が志願兵だったということは聞いていた。
だが健康を害して除隊したという。
何十年も前の話だ。

「…」
「俺は心臓の薬をいつも持ってるんだ。発作が起きたら飲むやつ。ニトログリセリン。」
「はい。」
「あいつらこれも取ってくんだ。ひどい奴らだ。」

義父は確かに薬を携帯している。
心臓が悪いのは事実だ。
しかし、誰が隠すというのか。
隠すメリットはあまりないだろう。
義父は耳の遠い高齢の一般人だ。
何かあっても、そこに利益が生じる人間がいるだろうか。

いつもの妄想が出てきた。
最近は頻度が上がってきたような気がする。
大人しく聞いていても、きっと最後までつじつまは合わないだろう。
早く切り上げたいと思った。
夕飯の支度はまだ途中だ。

しかし義父の話は続いた。
「昨日の夜中は、俺が寝ていると思って外国の奴らが枕元に来たんだ。」
「はあ…。」
相槌を打ちながらでも進められる作業がないかとあたりを見回す。
「黒い服を着ててさ、何人かいるんだ。頭の方と足の方に分かれて、俺の体を持ち上げたんだ。」
「そうなんですか。」
テーブルの上を拭き、皿を並べた。

義父は得意げに話を続けた。
「そのままぐるっと回って、頭と足を逆さにして布団に降ろしたんだ。」
「大変でしたね。」
冷蔵庫を開けて、納豆や漬物の入った容器を出す。

「その後、奴らは氷水の中に俺の足を漬けたんだ。」
「そうでしたか。」

その氷水はどこから持ってきたのか。
隣で寝ている筈の義母はその時どうしていたんだろう。
聞いてみたいけれど、難聴の義父が内容を聞き取るまで何度も繰り返さなければならない。
やっと聞き取ってもらっても、そこからまた話が広がってしまうのは避けたい。

「ところがだ。朝起きると元通りの位置で寝てたんだ!」
そうでしょうね、と言いたいところだったが堪えた。
「奴らは頭がいい。ばれないようにまた俺の体の向きを直してから帰っていったんだ。油断できないんだよ。」
ふふ、と軽く笑う義父を見て、『この人が、冗談を話してるつもりならいいのに…。』
と思った。
しかし義父は本気で話している。
笑っているのも、自分は油断をしない男だと嫁に自慢しているだけだ。


ふと、義母の事を思い出した。
最近の義母は、朝私が起きてくるのを心待ちにしている。
「おはようございます。」のやり取りが終わるや否や、堰を切ったように話し始める。

「夕べ寝る前に、じいさんが…。」
内容は日によって違うが、共通しているのは夫である義父への不満だ。
耳が遠く、こちらの話を全く聞かない。
自分の言いたいことだけを言い、「聞こえなくても大丈夫。生きていけるし、かえって都合がいい。」と笑う。
こんな義父と、義母は一日中一緒にいるため、だいぶストレスが溜まっているようだった。

話を聞いて、それで義母が少しスッキリするなら聞いてあげなくては…。
相槌を打ちながら、朝食の準備をする。
だが義母の話は長い。
相槌を打つのもいい加減うんざりするくらい長い。

ある朝義母は、私が台所に入るか入らないうちに話し出した。
「じいさんが夕べ『お前は浮気したんだ!』て言うんだよ。」
「え?」
「俺が病気で、お前を満足させてやれなかったから浮気したんだってさ。」
「…。」

何と返事をするべきか、言葉が出てこなかった。
70代と80代の高齢夫婦の夜の事情など、まだ30代の私には想像もつかない。
義父の妄想だろうとは思ったが、そもそもこれは嫁が聞くべき話なのだろうか。
ここまで私が受け止めなければいけないのか。
嫁としての義務感で、かろうじて返していた相槌が出てこなくなった。
代わりに、紙やすりで背中をこすられたようなザラッとした嫌な気持ちが湧いてきた。

義母のストレスを受け止めるのは私の仕事か…。
嫁ならそうなのか。
じゃあ私のストレスを受け止めるのは誰なんだろう…。


物思いから我に帰ると、義父はまだ一人で話していた。
『相槌すらいらないかもしれないな。』
そう思ったが、義父に背中を向けて料理を始めるのはためらわれた。

そうしているうちに義父は満足した様子になり、皿と納豆と漬物だけが並んだテーブルを見回した。
「ご飯はまだだね。出来たら呼んで。ああ、しゃべったら腹が減ったよ。」
私の返事を待たずに義父は台所を出て行った。

廊下を挟んだリビングからはテレビの音が聞こえる。
夕飯を待つ義母と子供たちがアニメを見ている。
義父もそこで一緒に夕飯が出来るのを待つのだろう。

自分が食事の支度を邪魔しているとは思っていないのだ。
自分のやることは理由があって必要なこと。
周りの人間がそれを考慮して、うまくやればいいだけじゃないか。
そう思っている。

義父母のおしゃべりを聞いてあげるのは重労働ではない。
二人の話に付き合う時間も、何十分かせいぜい1.2時間くらいが多いだろう。
ただし毎日だ。
毎日、毎日、毎日だ。


敬愛心はとうに枯れた。
潤滑油が無くなってしまった私の心は、浅く広く面積を広げながら傷ついていった。
傷に傷を重ねていくうちに、そこから黒い液体のような嫌悪感がじわりと染み出してきた。
最初は底の方に少しだけ。
でも気付くとそれは、縁(ふち)から今にも溢れそうなくらいなみなみと溜まっていた。

明日の朝、台所で義母の顔を見たらあふれてしまいそうだ。
もしあふれたら、私は義母に何を言うだろう。
義父にはどんな態度を取るだろう。
そのときの私は、言葉も態度も正気を保っていられるだろうか。


今晩は眠りにつく前に夫に話を聞いてもらおう。
夫に話すことで、この苛立ちがわずかでも減ってくれれば…。
取りあえず明日一日は爆発せずに済むだろう。

優しい夫。
仕事で疲れていても、私の話をずっと聞いてくれる。
何度も相槌を打ちながら、「ごめんね」とあの二人の代わりに謝りながら。

しかし、決して行動には移さない人。
話を聞くことで、妻の悩みはすべて解決されると思っているかのような人。

話しても変わらない。
もちろん話さなくても変わらない。
何も変わらない。
今日も明日もこの先もずっと、この人たちを「家族」としているうちは、私の心は黒い液体で満たされ続けるのだ。
いつあふれるか分からないこの恐怖を、この先ずっとこらえながら生きていく。

これが私の望んだ結婚生活か。
どうしてこうなったのか。
どこで間違えてしまったのか。
間違えたのは私か。
それならばその責任は私にあるのか…。


ガスコンロにフライパンを置き、強火で野菜を炒め始めた。
夕飯の支度を急がなければ。
義父の為ではない。
もちろん義母の為でも、夫の為でもない。
そうだ、これは子供たちの為に。
そう、私は子供たちの為に生きているのだ。
そう…。
そう思わなければ、やりきれないじゃないか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?