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第三回:くろぎの映画鑑賞感想文「青い春」

成人の日ですね!こんにちは、くろぎです。

ついに我が家にスイッチが届いたのでステイホームを満喫する準備が整いました(^_^)日曜日の深夜……10日に日付が変わってからしばらくした1時過ぎにヨドバシカメラのオンラインで注文したんですが、朝起きたら「決済が完了できていないので登録したクレカ情報を確認してください」というメールが来ていて「?」ってなってたんですね。しばらくしたらカード会社から「不正利用っぽいのを検知したからカードロックしたわ!」って物騒な連絡が来たので電話で確認したら「夜中の1時にヨドバシで3万の決済が入っているんですが注文したのはご本人様ですか?」と。なぜスイッチの購入で不正利用を疑われたのか謎でしたが速攻でカードロックを解除してもらいました。めでたしめでたし。

無事にカード決済が降りたその翌日、つまり今日の朝には品物が届くのはさすがヨドバシエクストリーム便。有能。

前座はここまでにしてラスト三本め!!青い春の感想いきます!!三本連続で感想文を書いていると懐かしの駿台記述模試を受けているような心地がしている。小論文。採点結果に期待。

「学校」という閉鎖空間特有の、焦燥と葛藤で歪むありふれた日常

冒頭数分を見た段階で喧嘩バトル👊💥が派手でダチ👬最強卍😤🔥みたいな陽キャヤンキー魂全開路線で来るのかな?と思いましたが予想を裏切られました。1時間半ちょいという短さに加え、セリフや場面が目まぐるしく展開するような話でもないので、作中のここぞというシーンで流れるTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの楽曲を堪能するMV感覚で見るのもアリだと思います。

この作品の結末、結構衝撃的だったわりにあまりにもあっけなく終わったので「?????」が浮かびまくったんですが、主題という視点で見れば今回見た3本の中では一番素直でシンプルな作品だったかもしれないです。

一言で言うと「挫折」「諦め」「葛藤」「焦燥」「嫉妬」「未練」「現実と理想の乖離」といったマイナスな感情を未熟さゆえに肥大させ、それにジリジリと侵食されてゆくヤンキー高校生の様子が描かれています。そして、それが些細な出来事をきっかけに決壊し、衝動的に引き返すことのできない自滅の道に飛び込んでしまうという、自我がまだ確立しきっていない思春期特有の危うげで不安定な一面に焦点を当てた作品です。

青春映画と言うと、夢や希望に満ちた輝かしい前途だったりかけがえのない友人の存在、心揺さぶられる恋愛、努力が実った成功体験のような、「ポジティブで輝かしい」学校生活をフィーチャーすることが多いですが、青い春は一切そういう描写がない。そういうキラキラした青春はリアルではないからです。だから全体的に静かで、ちょっと影を感じさせるような仄暗さが特徴的ですね。

加えてヤンキーはすでに「優等生」、なんなら「普通」というレールから外れてしまっていることからも自己統制が弱く、虚勢と実際の自分との間に生じた埋まらない溝や周囲の目に人一番敏感な弱さがある人物像としての基盤が前提として共有されているように感じます。それに伴い、思春期の不安定さにも顕著に影響されやすいパーソナリティを持っていると考えられます。いつ爆発するかわからない凶暴性もそこに由来するのかなぁと。
そのため、わかりやすいドンパチシーンがメインでなくてもヤンキーたちがこの主題の物語の中心にいることに違和感が生まれないバランスで話がまとまっていたと思います。

この作品で扱われるヤンキーの葛藤は、「学校」という極めて狭くて閉ざされた世界しか知らないという彼らの視野の狭さがキモになっています。彼らの前に立ちふさがるように現れた悩みはいわば「大人」になるための通過儀礼としての意味を持っています。しかし、彼らはそれに激しく狼狽します。学校生活が人生そのものである彼らにとって、学校を卒業した後の長い人生を具体的かつ現実的に見据えることができないため、どんな悩みであれ「今」が絶対的な指標になってしまう。それが彼ら自身を袋小路に迷い込ませているのではないかと思います。

思春期の頃の悩みがいかに深刻に感じられたか、大人になってから見返すと当時のヒリヒリ感を思い出せるような作品になっているのではないでしょうか。

「諦めなければ夢は叶う」わけではないことに気づく過渡期とどう向き合うか

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作中では甲子園を目指してひたすら部活に打ち込んで来たものの、試合に勝つことができなかったヤンキーが先輩ヤクザに誘われ、自分も極道の道を歩むことにして学校を去ってしまうエピソードがあります。

こういう青春ものでは「夢は諦めなければ絶対に叶う」ことを伝えてくるようなものが多い(それこそ同じくヤンキーが甲子園を目指すルーキーズが良い対極)ですが、むしろリアルな思春期はそれとは逆のことを痛感する時期でもあると思います。

つまり、思春期は「夢は必ずしも全員が叶えられるわけではない」「どんなに努力しても無理なこともある」という、失敗や悔しさを重ねていく中で認めざるを得ない、自分の能力値の限界(と思い込んでいるもの)や現実の厳しさを徐々に受け入れ始め、夢から醒めていく過程でもあるということです。

ただし、夢から醒めたからといって、大きな目標を持つことが馬鹿馬鹿しく無意味になるかと言われるとそんなことは一切ありません。むしろ挫折を経たからこそ「がむしゃらな努力」以外の成功に向けたプロセスを考えられるようになったり、目標の軌道修正といった次に繋がるアクションを策定しようとする。つまり、一度夢を諦めたからこそ見えてくる新しい夢もあります。

しかし、作中のヤンキーは高校生活最後の甲子園がダメになったことで「夢は叶わない」という「今」基準での事実にしか目を向けられなかったことで、これから先の可能性を全て潰す選択を取ってしまったのです。文字通り、高校生活の規模でしか自分の人生を考えていないからこそ、その先の夢を描く余地がなかったのでしょう。

幼馴染の九條を超えたいあまり「自分を殺した」青木の闇落ちが切ない

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個人的には青木のエピソードが一番日常に溢れている気がします。

九條と青木は小学生の頃からの幼馴染とのことで、その頃から呪縛の種は密かに蒔かれていたんじゃないかと思います。

九條と比較するたびに、素直に羨望する気持ちもありつつ、それ以上に青木の心を占めるのは劣等感。しかも九條本人は自分の出来の良さを後輩をはじめとする周囲にひけらかす(そもそも出来が良いことを自覚しているか怪しい)こともしない。それは青木が最も学校生活(人生)において価値を見出している「威厳」「プライド」といった分かりやすいモノに九條は一切興味を持っていないことも意味しています。なぜそれらを誇示できる力を持っておきながらそれをしないのか、というじれったさからも青木の「誰よりも特別でありたい」欲求が読み取れます。もはや、執着に近いかもしれません。まぁ九條が「学校の番」に興味を持っていないのは、その地位によって得られる他人からの承認を欲していないからということでもあり、このこと自体が九條と青木のポテンシャルの違いを明確に表していて残酷だなと思います。

ずっと一緒に過ごしてきた友達が自分よりも「上」であることを意識してしまえばしまうほど、自分の足りないところを嫌という程自覚させてくる。アイデンティティを確立したい、誰かに認められたい、と手探りする青木の葛藤に共感できる人はかなり多いのではないでしょうか。

特別でありたいと思うあまり、「自分を殺す」ことになった青木のような若い人ってマジで多いと思います。きっと、彼らが思うような「特別な人」ほど自分らしさをしっかり持っているんですよね。けど、そのことに気づかずただ単に自分が持っていない、分かりやすくて表面的な違いばかり追い求めてパッチワークした結果がアイデンティティの喪失っていうのが皮肉ですよね。映画の結末はそのことを一番インパクトある形で提示しているなと思いました。

「花は咲くもの」の言葉が全て

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九條の周りのヤンキーらが次々と学校から去っていく中、その仲間と一緒に水やりをして育てていたチューリップの花壇を見ながら
「枯れない花はない。学校を辞めようと思う」という九條の言葉と
「花は咲くもの。枯れるものではないと思うようにしている」と返した先生の言葉から、思春期と大人の「人生」の捉え方が如実に表現されているのが好きです。

成功と失敗、確信と葛藤。試行錯誤の連続こそが人生そのものであることに気づけた時にはじめて、彼らを狂わせるほどのエネルギーを持ったフラストレーションの本質をようやく理解でき、それを愛おしく懐古できるようになるのではないでしょうか。それが大人になるということだろうなと思いました。

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