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リベンジ九州旅・石垣原古戦場周辺

さて、九州リベンジ旅記録の続きです。

※石垣原合戦の詳細については、こちらの記事を御覧ください。

前日に大分県入りし、夜には別府方面へ。しかし今回の旅で目的としたのは温泉……ではなく! もちろん史跡です! そして朝も早くから訪れたのが、別府市内にある吉弘神社です。

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お天気は生憎の曇り空……! でも雨が降ってないので良しとしましょう。

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ここは大友義統に仕えた吉弘統幸を祀る神社です。

慶長5年(1600)9月、豊後の関ヶ原ともいわれる石垣原合戦において、西軍石田三成に味方して挙兵した大友義統の家臣・吉弘統幸を祀る神社です。統幸は東軍・徳川家康方につくべきだと主君を再三諌めましたが聞き入れられず、黒田如水の東軍とやむなく戦い、「明日は誰が 草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」と辞世の歌を残して戦場の露と消えました。その統幸を近くの臨済宗・太平山宝泉寺の住職が村人と相談したうえで、石碑をたてて手厚く葬り、その印に一株の松を墓の側に植え、位牌を寺に安置して、その菩提を弔っていました。大正11年(1922)、地域の人々の手により、墓所の前に一間社流造の本殿と入母屋造裳階付の拝殿が建立され、吉弘神社と名付けられました。(九州旅ネット 吉弘神社 より)

この吉弘統幸という人はかなりの武人で、秀吉が生きていた頃にはその槍の腕前を讃え、直々に朱槍を与えたそうです。大友家が改易した後、紆余曲折あって従兄弟である立花宗茂(彼らの父親同士が兄弟なのです!)の元に身を寄せていましたが、関ヶ原合戦に伴い大友家の当主となっていた大友義乗(義統の嫡子)が東軍へ身を寄せることを知って、立花家を去ります。しかし関東へ向かう道中、旧主であった大友義統と偶然再会し、西軍へ与しお家再興を願う義統に心動かされたのか、供をすることを願い出て、豊後へと戻ることとなります。詳しくは前回の記事をどうぞ。

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早朝だったこともあり、静かな境内。

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明日は誰が 草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影

大友勢は豊後入りした後、まずは細川家の家老である松井康之・有吉立行の両名が守る木付城攻めを行いました。攻め手の一番手は吉弘統幸だったとも、共に大友に属していた宗像掃部鎮続であったとも伝わります。ですが城の守り手である細川勢も奮闘し、あと一歩というところで中津から黒田如水率いる軍勢がやってきたことで、大友勢は兵を引かざるを得なくなります。

石垣原という土地まで下がった大友勢は、軍を3つにわけ、黒田・細川勢に対抗します。吉弘統幸はその一つの軍を任されていましたが、兵の数はこの時点で押して知るべし……でしょう。白兵戦となった合戦当日、吉弘統幸は最後の最後まで力を振り絞りますが、遂にここまでかと空を仰いだ時、そこには月があったと言います。

この辞世の句は、激しい激突となり敵味方もわからぬほどの屍が積まれた大地と、静かに両軍を照らす月の光をストレートに詠んだのではないでしょうか。大友家の波乱の時代を支え続けた武将は、その武勇に違わぬ真っ正直な心根の持ち主だったんじゃないかと私は思います。

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石垣原古戦場跡 石碑

吉弘神社を後にしてからは、市内の他の史跡を回ります。とは言っても整備されているというよりは、民家のすぐとなりに史跡が立っていたりするものがほとんどでした。当然駐車場などないので、車を止めるのにちょっと苦労しました(笑)

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上写真と同じ場所にあった碑文

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大友本陣之跡 案内板

こちらは大友義統がいたとされる本陣への案内。別府市指定史跡となっている石垣原合戦地の大友義統本陣跡の付近は、もともと立石村の古屋園と呼ばれていました。ここには石碑が建っており、「石垣原合戦大友本陣の歌」という碑もあります。

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一 九州探題 大友と 飛ぶ鳥落とす 勢の
  栄華の夢も うたかたに 僅かに護る 一千の 杏葉の旗 月寒し
二 敵は黒田ぞ 不足なし 目にもの見せん 大友の
  武士の最後を飾らんと 月見の宴 吉弘の 出陣の舞 さわやかに
三 さらば出陣 大楠も 梢を鳴らし 大将旗
  朝日に映えて 精鋭が 黒田の陣へ 突撃の 喚声鶴見の 山揺する

切ないな……。

以下は旅行直後にツイッターで呟いていたものです。石垣原古戦場を車でではありますが直に回ってみて、感じたことなど。今回、どうしても各陣屋や衝突した場所との距離感を知りたかったんですよね。

石垣原古戦場跡地、車で回ったんだけど次に行くときは歩いてみたいよなあ……多分あの距離感を徒歩だと真面目に一日かかっちゃうとおもうけど……せめて義統本陣から、宗像本陣・吉弘本陣までの距離感は実際に歩いて確認がしたい。
あと、別府立石という土地は坂が多いし急なんですね。なんか、突然坂がぐぐっと伸びているし、突然平地になるっていうか……わりと凹凸が多い印象を得ました。これ、馬の移動大変だったんじゃないかな。前に読んだ文献の一つでは、それなりに馬移動ができる道だったろうと予測されてたけど、あくまでも「悪路ではなかった」程度だと思うし。整備されてる現代のコンクリ道ですら凹凸のすごさを感じたから、当時は推して知るべしって感じだなあ。
吉弘嘉兵衛本陣跡からは、北~北東方面に町が広がっている。町の方向は本陣から見て低くなっており、本陣はだいたい標高140m地点。ちょうど真北方向に黒田如水本陣跡を確認することができる。一番、最も危険かつ敵を視認しやすい位置取りしていたのでは……?
そして吉弘本陣から大友義統本陣跡までは大体1.2kmくらい。車なら5分もかからないか。川合康・著『源平合戦の虚像を剥ぐ』によれば、在来馬に体形が近いとされる木曾馬は、空の状態でも時速40km以下らしいから、人間が甲冑つけて乗って時速20~30kmくらいになるとざっくり考えても自転車くらいか?プロのロードレーサーは70km位出るんでしたっけ??よく知らないんですけど一般人の普通のチャリンコ漕ぐ速さくらいって考えると、五分よりはどう考えても掛かりそうだよな~~しかも吉弘本陣から大友本陣までは坂道なんだ。車でも登ってんなって感じだったから、徒歩や馬ならもっと感じそう。
ざっくり今の平均値みたいなので考えても、1.2~3kmなら15分もあれば歩いて行けるか……やっぱりけっこう近い位置には居たんだなと。まあ、心配だよね。心配だと思う。同時に義統も嘉兵衛の陣の様子は気が気じゃなかったと思うし、何より北方向に位置する、現在の「石垣原古戦場跡」がある場所は南立石という名前の土地で、ここが一番の激戦区、しかも白兵戦でやばいことになっていた土地らしい。現在の別府IC、その後ろに鶴見岳を控える方角はまた坂道で、海に向かっていきながら土地が低くなっているから随分めんどくさい地形だと思う。少しでも高く安定した場所に本陣を構える気持ちは頷ける。

以上の距離感考察は実際に行った感触とグーグルマップを睨みつつ、文献等を参考にして考えたものです。根拠があるものではないのであしからず……。

ざっくり駆け足ではありましたが、石垣原古戦場を回った後は熊本方面へ向けてしばしのドライブとなりました。震災の影響はまだ色濃く残っており、通れない道などもいくつかありましたが、阿蘇山の横を抜けていくようなコースで車を走らせました。2~3時間くらいかかったかな……?

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お昼過ぎには熊本県内に入り、熊本城真下の城彩苑にてお昼を頂きました。

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戦国パークが中止になってしまったのは本当に残念だったのですが、全国各地の武将隊さんとコラボしたメニューだけはなんとかやっててくれたんですよね……! 熊本城おもてなし武将隊の皆様、本当に美味しそうな顔でご飯を召し上がるので大好きです(笑)

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武将隊の南條元清さまコラボのアイスクリーム!美味しい~!!南條殿はソフトクリームソムリエ武将なんですよ!(何を言ってるかよくわからねーと思うがry)毎年数々の美味しいソフトクリームを紹介してくださっています。城彩苑には様々な飲食店があるのですが、どのお店でも美味しいソフトクリームをいただくことが可能です。

そして数日付き合ってくれた友人を熊本駅まで送ってこの日は終了。私はもう一泊、熊本に滞在することとなります。

夕方の水前寺公園もいいものです。

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リベンジ旅、そろそろ終盤です。続く!

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