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石垣原合戦のこと

さて今回は、以前書いたこちらで予告した通り、大分県は別府、石垣原合戦について綴っていきます。本当は旅行記をそのまま書こうと思ってたんですけど、前書きだけで長くなりそうだったので分けました(笑)

この戦は私の中で譲れない合戦です。いかに知名度が低かろうとも気にしませんとも。なぜかというと、この戦に参加している松井康之という人物が私の三本指に入る推し武将だから! 旅行記ではそのあたりのことも交えつつ、訪れた言わば聖地巡礼の話をしたいと思いますが、まずは歴史的な背景についてせっかくなのでこちらの記事でまとめておきたいと思います。

そもそも「石垣原の戦い」とは

石垣原(いしがきばる)の戦いは、慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で行なわれた黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の合戦です。これは九州の関ヶ原合戦とも呼ばれており、かの有名な関ヶ原の戦いの裏(別に裏じゃないんですけどね)で起きた戦です。

ざっくりと関ヶ原の戦いについて

「関ヶ原の戦い」を聞いたことがない、という人もなかなかいないでしょう。歴史の教科書にも名前くらいは載っています。一般的には、この戦を制した徳川家康が、以降江戸幕府を開き、およそ260年ほどに渡る泰平の世を築く……大体そんな感じに認識されているのかな、と思います。

ですがなにも関ヶ原合戦一つで天下の行末が決まったわけでも、この戦ですぐさま泰平の世になったわけでもありません。当時の日本には、全国に大小様々な大名や国人衆がおり、持ちつ持たれつ、味方になったり敵になったりしながらそれぞれの領地(国)を保っていました。所謂力を持った強力な大名、というのはごく一部、これは石高で区別できるそうですが今は割愛します。織田信長による天下統一目前の事業が頓挫し、その跡を継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)は豊臣政権と言われる、豊臣による政治体制を作り上げます。これによって国内のほとんどの大名たちは豊臣の幕下へ下り、長い戦乱の世が続いた日本にもようやく一応の平穏が訪れます。秀吉の幕下にあって力を発揮したと言われるのが、石田三成や浅野長政などです。そして秀吉が亡くなったあと、再び国内は揺れ動くこととなり、やがては関ヶ原合戦と続いていきます。

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内部では五大老の徳川家康が台頭するが、これに五奉行の石田三成が反発し、両派の間で激しい権力闘争が行なわれました。
慶長5年(1600年)になると両派の対立は頂点に達し、家康は三成派の上杉景勝が領内で軍備増強を行なったことを口実にして会津征伐を断行します。福島正則、加藤嘉明、細川忠興ら豊臣氏恩顧の大名は親家康・反三成の立場から会津征伐に従軍しました。また、豊前国中津城に18万石を領する黒田長政も彼らと同じ立場から黒田軍を率いて会津征伐に従軍します。

こうして大坂をはじめとする畿内から家康の影響力が一時的に弱まった間隙を突いて、7月に石田三成は毛利輝元を大将に擁立して挙兵しました。こうして両派の戦いは天下分け目の東西対決となり、全国各地に戦火が飛び火することになったのです。
国内の大小の大名たちは東軍か西軍かに分かれて動いていたようです。日和見をしてどちらにつくか、宣言していなかった人もいたそうです。まあそりゃそうですよね。どっちが勝つか分かりませんし、当初の兵力差だけ見ると徳川家康方の「東軍」は、豊臣側の「西軍」に対してかなり少なかったらしいですし……。

九州にも戦火は飛び火しました。黒田長政は黒田家主力を率いて会津征伐に従軍していましたが、隠居していた長政の父・如水が中津城の留守居に残っていました。この如水が蓄えた金銀を放出して浪人3600人あまりを集め、更に留守兵に加えて領内の百姓や商人を動員して掻き集めた約9千人の黒田軍を編成し、9月9日には豊後国に侵攻を始めたのです。

細川家の動き

さて、ところかわって畿内周辺。細川忠興が当主である細川家(長岡家)もまた、東西どちらにつくか、と頭を悩ませていました。しかし、結果として細川が選んだのは東軍、徳川方です。これを表明したことにより、細川家もまた苦しい立場に置かれることとなります。
細川家の礎を築いたといわれる幽斎公が田辺城にて籠城をしている頃、細川家家老である松井康之及び有吉立行は豊後の木付城の守りに入っていました。ここは細川家の飛び領であり、先の朝鮮出兵の際における台所料として忠興が徳川家康公より加増されていた土地です。

慶長5年2月、松井康之が城の受け取りのために己の領地を出発し、この受け取りには有吉立行、魚住市正など合わせて二百人ほどがついていきました。3月頭に豊後へ到着、城を受け取り、忠興がやってくるまでの間、領内の検知を行い、法度を定めたりしていた様子が記録されています。4月に忠興が直接、木付にやってきて、領内を巡察のち、中津にいた黒田如水と会見しています。
丁度その頃、上杉景勝が挙兵したとの知らせがこの中津に届けられました。知らせてきたのは長岡玄蕃、忠興の弟である興元と、そして家老の一人である米田求政であったと、『松井佐渡守』(著者 廣瀬莞爾)にはあります。忠興は急ぎ、家康の元へ参じるために宮津へ帰国。康之と立行はそのまま留まり木付城の守りを固めることになりました。
忠興は6月の頭、丹後に帰り、松井興長を嫡男忠隆に従わせ、17日に宮津を出発とあります。(同『松井佐渡守』)幽斎公は田辺の城へと入っていました。
そんな経緯があって、細川家の二大家老である松井・有吉ペアはちょうど今の時期、豊後は杵築にいたのです。西国の地で、家康に与するとはっきり旗色を示すものは少なかったようです。まあ、東国の状況などおいそれと把握することは難しいですし、現代のように便利な電話やLINEがあるわけでもありません。やはり遠いとは何かと情勢を伺うにも苦労するんだなと思えます。ちなみに「杵築」と書くようになったのは江戸時代になってかららしい。

大友家の動き

当時大友家は改易の憂き目に遭っていました。このあたりの経緯は省きますが、九州の雄として君臨していた大友家は、義統(吉統)の代になると徐々に陰りを見せ始めます。関ヶ原合戦が起きた慶長5年当時、大友義統は衰退した大友家復興のため、西軍に属していました。
そして大友家は、前述した細川家の飛び領である木付を奪取すればお家再興の糸口を掴めると決意を新たに、古巣である豊後へと兵を挙げることとなります。

義統は途中、元は家中指折りの勇士であった吉弘嘉兵衛統幸と再会し、彼から「息子である義乗様は東軍に付き、情勢は明白、ここは徳川についたほうがお家安泰で御座います」と訴えられたものの、義統はこれを拒否し、西軍からの要請のあった通り豊後へ進軍します。ここには毛利輝元からの兵を借りていたとも言われています。

無論、義統の真意は彼にしか分かりませんが、単に無策で言われるまま豊後へ赴いたのではなく、嫡男義乗が東へつくなら自らは西に、というような敢えて両方へ旗を振っておくことで大友家の再興を目指したのではないか、とされる見方もあるようです。(個人的には、少なくともこれから起こる石垣原合戦において、大友勢は決して無策で愚かな戦を仕掛けているとは思えません。)
さてそれはさておき。元主君の強い意志は変えられないと察した吉弘嘉兵衛統幸は、大友家嫡男である義乗のもとへ行く途中でしたがここで転身、結果として義統の後を追い、西軍として木付城攻めへ参加することになります。

大まかな戦の流れ

故郷で再興しようとする大友勢ですが、運が悪かったとすれば、細川勢である松井康之にその辺の動きが知られていたことでしょう。(※ド偏見に満ちた感想)松井康之は大阪の奉行たちから、「あなたの主君である細川忠興は亡き太閤殿下(豊臣秀吉)への恩を忘れている不忠者ですが、あなたは懸命な判断ができるでしょう」という手紙を貰っていました。つまり、西軍に味方しないか、という誘いですね。しかし、康之はこれにブチ切れて手紙を投げ返したのち「また来たら今度は首を引っこ抜く」と言って追い返します。康之公51歳の頃です。

『松井家先祖由来附』によれば、慶長5年9月、西軍に与する大友義統が豊後へ進軍したことを知ると、康之は僅か200名という人数で木付城で籠城を展開します。そして地域領民の中でも特に有力な(つまり金を持ってる商人など)を人質に取り、木付城内に閉じ込めました。これは豊後の民であるものたちが、代々の領主であった大友家の帰参を喜んで迎え入れるだろう、という目算があったからだとされています。また篭城戦は常に不利な状況を強いられるものです。三の丸と二の丸は自分たちで崩して、攻め手に備えたと伝わります。更に、康之は中津にいる黒田如水へ援軍を要請し、その到着を待って、義統が本陣を構える立石へ軍を進めることとなります。

終わりに

いかがだったでしょうか。文字ばかりでしたが、ざっくりと関ヶ原~石垣原までの流れをご紹介できたかと思います。次回は改めて、これを踏まえた上で九州リベンジ旅の続きを書いていきます。最後に、このあたりのまとめは以前ツイッターで呟いてきたことを改めて載せた形となります。Togetterにもまとめていますので、ご興味のある方はぜひご覧ください。呟きなのでわかりにくい箇所も多いですが……。

Togetterまとめ
木付城籠城~石垣原合戦における細川家の動きと活躍メモ

今はまだアマチュア以下の作家/小説家としてデビューがしたい。日々の雑多な記録と感想。// Favorite→歴史(九州地方、細川家)、中原中也、文学、旅行、紅茶など。