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リベンジ九州旅・大分杵築城と石垣原のこと①

遅くなったが、2020年3月に行った九州旅の続きを書いていこう。去年のうちにちょっとずつ書いてはいたけれど、いかんせん日数が多いのと気分にムラがあるせいでなかなか進まなかった。もう一年前の話になるなんて、ちょっとびっくりする。
でも、写真を見ていると行ったときのことを思い出す、というのは良い。私は旅の思い出と、資料用にという意味があって写真を撮っているんだけど、「私が見えた印象を残せるような写真」は意識している。それがそのまま、いつか書き物に使えるんじゃないかなんて考えているから。まあ、それが写真として上手いかどうかはさておき(笑)

前日まで福岡は柳川に滞在。「御花」で宿泊をして翌朝です。

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これぞ「素晴らしい朝」! なんてきれいな朝なんでしょう。お庭の素晴らしさは前日にも堪能しましたが、このきれいな色! 初春だったということも良かったのかもしれませんし、柳川は水が豊かで海も近いことから、こんな朝もやの淡い光が見えるのかな、なんて思いました。他の季節ではまた違った顔が見れるんだろうなあ。流行病が落ち着いたら、ぜひともまた滞在してみたい。本当にそう思う素敵な町です。

朝ごはんも御花でいただきます! あ、朝から……すごいよ……大名……? 体に良い食材と優しいお味! そして「腹八分目」という言葉が言う通りの少し軽めの献立。少しずつ味わえるのも個人的にはポイント高しです。ふわふわの湯豆腐もあって(こちらは写真がないですが、席につくとテーブル土鍋で煮立てていただきます)朝のお腹に染み渡る~~~!! ご飯食べに行くためだけに御花に訪れたいくらいです!! 本当!!

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お腹いっぱいで満たされたらこの日のおやつになるようなお土産を購入して出発支度。一泊だったけれど、もっともっと居たい……柳川……。
こちらの蜜柑ジュースは、なんと立花家が所有する農園で栽培された自家製蜜柑から作られているそうで! 私はフルーツ全般が苦手で、特に柑橘系は酸っぱくてどうにも口に出来ないのですが、人生で初めて「美味しい!」と言ったみかんジュースが、これです。宿泊の受付をする際に、ウェルカムドリンクで御花のスタッフさんに出していただき、一口も飲まないのも申し訳ないなと思って口をつけたのですが、あまりにも美味しくてカルチャーショックを受けました(笑)

私「お、美味しい……!? ですね……!?」
スタッフの方「有難うございます。立花家の農園で栽培されたお蜜柑を使用しておりまして、蜜柑の具合でお味が変わるので、毎年少しずつ(味が)違うんですよ」
私「自家農園……!? お、美味しいです……」

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今年はまた違う味かも? でもこんなに美味しかったんだから、また飲みたいな~。九州、常に食で私を掴んで離さない。

さて、柳川を後にして、この日からは少し長めのドライブ&強行軍のスタートです。

実はこの当時、流行病の影響がまだ始まったばかりということもあり、各県、自治体などの対応が本当に直前、当日にならないと分からない、ということが沢山ありました。誰しもが戸惑っていたのだと思います。
柳川を出立する朝には、御花にほど近い場所にある柳川古文書館に立ち寄ってから大分方面へ行く予定だったのですが、なんとこの日から県の通達があって休館だとお聞きしました。そ、そんなー!! 楽しみにしていた『「松井家・立石家のおひな様」展』が見れないなんて!!!!!(※ちなみに2021年4月2日現在、同展示が開催中です。去年出来なかったせいでしょうか……頼むから来年もやってほしい……っ)あまりにもショックで半ば呆然としながら泣く泣く柳川を後にしましたとさ。悲しい。許さんぞウイルス。

改めて出発。ちなみにこの旅行の期間中はレンタカーを借りてることにしました。柳川~大分~熊本の予定だったので計3日間。ほぼ走りっぱなしだったけど、今の軽って燃費良いんですね!(感動!)
まず目指すのは大分県大分市にある大分市歴史資料館! 九州横断自動車道から大分自動車道を経由して約2時間半ほどドライブ。丁度この時、大友氏の手紙を展示しているという情報を聞いていたのでヤッタ~! と喜びをあらわに向かったわけです。

そうしたらね……

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資料館、休館してるってよ。

なんと!! 丁度この日から!! だそうで!!!
私たちが訪れた日の丁度前日、大分県で初の感染者が発表されたところで、それを受けて市から急遽通達があったらしく……と、入り口で戸惑っていたら資料館の方が出ていらして教えてくれました……。マジすか……。パンフレットいただきました。有難うございました……。許さんぞ……。リベンジ旅の話なのにリベンジ出来ずに終わってしまう。タイトル詐欺になってしまう。それだけはいけないので()資料館のすぐ横に位置する豊後国分寺跡史跡公園をお散歩することに。お天気がよくて……なによりでした……。

ここは奈良時代に造られた豊後国分寺の跡地です。南北約300メートル・東西約180メートルという広大な境内に、高さ約67メートルの七重塔と本尊を安置した二階建ての金堂などが立ち並んでいたそうです。現在でも残っている礎石(そせき)からは当時の広さと姿が偲ばれ、桜もちょっぴり咲いててきれいでした。春が一番見頃のようですね。

残念ながら空振りが続くリベンジ旅三日目。気を取り直して、今度は出発前に車で連絡をしてから、大分県杵築市に向かいました。

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お目当ては杵築市のランドマーク的存在、杵築城です!

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杵築(きつき)城は1394年築城。当時『木付』と命名されたお城でしたが、江戸時代に入ってから幕府朱印状に誤って『杵築』と記されて以来、そちらで名称が統一されたようです。(個人的には、東京都武蔵野市にある神社「杵築大社(きづきたいしゃ)」と混在されたんじゃないか……?なんて妄想しています。そもそも、現在の出雲大社が元は「杵築大社」という名で、こちらも「出雲大社」と名称を変えたのは明治に入ってのこと。『杵築』という文字のお社は江戸と出雲にあり、由緒として立派ですよね。そのへんと混在したんじゃないかな~って。)

室町時代初期、九州の雄・大友氏の配下であった木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれたこの城は、北は高山川、東は守江湾といった天然の要害に囲まれた城でした。現在でも、城の展望室から見える風景を見れば海に囲まれた土地だということがわかります。

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下の写真は別府湾へ続く八坂川が通り、その右手には武家の屋敷や商家が並んでいたそうです。

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そしてこちらが、その逆側。つまり別府湾を臨む方角で、国道213号線である杵築大橋が見えます。杵築城はこの橋を渡ったすぐ先の高台にあるので、室町当時は海側から来る敵兵を一望し、背後に町を抱える形だったんだな~としみじみしました。

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なぜここへ来たかったかというと、私の推し武将が一時期入っていたことがあるお城なのです。実はここ、戦国の世の終わりを象徴する関ヶ原の戦いにも関わっている重要な場所なんです! あんまり有名じゃないけど!! でも大河ドラマ「軍師官兵衛」にもちらっと出てきたし!! まああんまり尺なかったけど!! そのへんの話はまた次回にするとして……。(※長いから)
ともかくこの杵築城、細川家、ひいてはその家老家であった松井家ファンの私としては、どうしても外せない場所だったのです。

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ただこの杵築城に到着した時点ですでに午後3時近く。かなりギリギリです。移動が長いもので(笑)三日目の宿は別府のビジネスホテルを取ってましたので、そちらに移動もしなければいけません。だから杵築市をまったく観光できず……かろうじて、このお城だけ見れたという状態。杵築は江戸時代に入ってから細川氏→小笠原氏→松平氏(能見松平家)と藩主を変えて治めていた土地であり、市内には数多くの武家屋敷の跡や歴史的価値の高い資料が沢山あります。また土地の形も独特で、見るべきところが山ほどあるんです……!! そのどこにも行けなかったというのは、ちょっと失敗でしたね。これはまたリベンジをしなければなりません!! 今度は杵築市だけで2日時間を取って来ます!!!

最後に向かったのは某所にあります大友義統公の供養塔。

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すっかり、日暮れです……(笑)
高速道路の脇を流れる川沿い、一般民家を横に見る細い道を歩き回ってその奥にようやく見つけた、ひっそりとした場所。大分市の賑わう場所とは全く違った、本当にささやかな場所にポツンと供養塔を表すこの看板が立っていました。もっと明るい時間帯に行ったほうが足場は安全でしたね……。

大友義統は、大友義鎮(宗麟)の嫡子です。義鎮の全盛期には九州六カ国を治めたと言われる大友家ですが、徐々に陰りを見せ、やがて義鎮(宗麟)が亡くなる直前に羽柴秀吉へ帰参、その家臣となります。義鎮亡き跡を継いだ義統は朝鮮出兵の際に不手際があり、これが秀吉の逆鱗に触れることとなります。大友家は源頼朝以来の由緒ある家であるとして死一等は減じられたものの改易されることとなり、諸領地であった豊後を追われます。点々と身柄預かり先を変えながらもお家再興の時を狙っていた義統は、その後豊臣秀頼の特赦により罪を許されますが、かつての大友家の姿は見る影もなく、豊後の土地へ戻る日を夢見て関ケ原の戦いの前哨戦とも言われる石垣原の合戦に再起を賭けます。立場としては、西軍、つまり豊臣方というわけです。

しかし、結果は敗北。やがて天下人となった徳川により、常陸国に配流されて以後、二度と豊後国に戻ることはなかったと言います。(配流先は諸説あるようです。)この供養塔は後に家臣団が立てたとも伝わり、今でも生花が活けてありました。地元の方が偲んで供えていらっしゃるのかもしれません……。

私「よしむねくん……」
友人「よしむねくん……」

しんみりした夜でございました。
「石垣原の合戦」については、四日目の日記にて詳しく綴ります。なぜなら四日目はまさに「石垣原古戦場」に行ったので! 続く。

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