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武器・武具から見る忠興公のこだわりを考察してみる

 本日も(自称)細川家の家臣をやっています、私です。熊本大学の研究紀要(2024)を頼まなきゃ、と思って時が過ぎました。はがきを買いに行くところからです。


本日の主題~細川忠興公の【こだわり】~

 本日は細川忠興公の『こだわり』について──中でも彼が扱った、所有していたと伝わる武具・武器などから考察し、細川忠興という人物のなんともいえぬエモさを感じていきたいと思います。
 少し前には、福岡県北九州市(小倉北区)という都市部を見た時の『こだわり』であったり、武具の一つである「馬印うまじるし(馬験)」をピンポイントに取り上げてみたりしました。そちらも合わせてご覧ください。

細川忠興とは

 まず改めて細川忠興という人物について軽くおさらいしておきましょう。

 細川忠興(1563年~1646年)とは所謂「戦国武将」「戦国大名」などというカテゴリに分類されるだろう人物です。室町時代末期、まだ戦乱と称される時代背景の中に生まれ、江戸幕府成立とその初期の政治情勢に関わりました。
 勘の良い皆様はお気づきでしょうが、彼は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、俗にいう三英傑に仕えた人物でもあります。こうした立ち位置にいる武将は実のところ案外少なく(まったくいないわけではありませんよ)、忠興が怒涛の人生を送ったであろうということは想像に難くありません。

 ですが、細川忠興という人物が世で語られる時、そのほとんどは武将としての功績ではなく政治家、あるいは茶人としての側面を取り上げられることが多いように私は感じています。

 有名な戦で首級を上げた、華々しい活躍をしたというような肩書きは、例えば本田忠勝や立花宗茂、蒲生氏郷、吉川元春などなどなどなど、名だたる名将たちがおります。忠興が武将として無能だったとは決して思いませんがどうしても彼らには劣るかと思います。しかし、個人的には 戦まで有能だったらもうパーフェクトヒューマンということになってしまうので神様が敢えて「武将」の側面はスキルを少し落としたのかな☆彡 と、私なぞは本気で思っているわけです。

美的センスがカンストしている

 忠興は隠居してからの名を「三斎宗立さんさいそうりつ」と改め、一般的には「三斎」として知られています。あるいは、こちらの名のほうが有名かもしれません。
 現役時代と合わせ、この隠居後における政治家としての側面、また茶人としての側面、さらには美的センスがカンストしたアーティストとしての側面が忠興にはあると考えています。カンストは言い過ぎかもしれませんが、私は忠興の家臣(自称なので)敢えてカンストと申し上げておきます。
 このアーティスト的気質が、彼の創り出す武具や甲冑のデザイン、機能性に現れ、また幽玄なる茶の湯世界でも発揮され、武将としての一面以上に細川忠興という人物を形成している要素だと考えています。勿論、忠興は「職人」ではありません。自らの手で物理的に作り出したものも茶道具などにはありますが、刀剣や甲冑類に及んでは細川家が抱えた専任の職人がおり、彼らに指示を出して制作していたのです。現代風に言うとプロデューサー、アートディレクターのような役割でしょう。

 では実際にどのようなものがあるのか? 見ていきましょう。

 ていうかもうここからは私が「これ見て! すごい! センスの塊! ハイセンス戦国武将! 最高! ヒャッハー!」と言いたいがための紹介となりますが、これをご覧いただいてる方には、ぜひ何かの機会に実物を眺め、ふむふむと首を縦に振る時間を設けていただければ幸いです。

例① 栗色革包胴紺糸射向紅糸威具足くりいろかわつつみどうこんいといむけべにいとおどしぐそく

 こちらはつい先日書いた記事でも紹介したので詳細は省くのですが、よかったら該当記事をご覧ください。

 ちょうど会期のポスターにも件の甲冑が載っておりました。左上の甲冑です。
 分かりますでしょうか、甲冑の草摺部分(下半身、腰回りのあたりの、ひらひらしているものです)向かって右側だけ黄色っぽい色をしておりますでしょう。この部分が射向いむけ。経年によって退色していると思われ、「紅糸威べにいとおどし」と名付けられているから当時は紅糸、つまりもっと赤っぽい色だったのだろうと推察できます。

八代市立博物館未来の森ミュージアム 
令和5年度冬季特別展覧会 武将の備え ~八代城主松井家の武器と武具~
チラシ裏面 より

 こうした「敵に向けるところだけ色変しているセンス」の出し方が、うわ~~~~~~~っっっ細川忠興~~~~~~~っっっって感じがするのです。忠興の自信の表れと共に、機能だけでなくデザイン性も兼ね備えたお洒落なんじゃないかな~と素人目ながら思います。

 ちなみに、永青文庫で所蔵されている『栗色革包紺糸射向紅威丸胴具足』も、同様に射向だけが紅糸で威されています。肥後藩主9代目斉樹なりたつ所用のもので、揃いの兜も俗に三斎流と呼ばれる山鳥の尾羽を使用した頭成兜です。三斎(忠興)のセンスをそのまま落とし込んだかのような造りを、斉樹も好んだのでしょうか。
 彼は宇土藩主の三男として生まれ、紆余曲折あって肥後藩主の座につきますが30歳という若さで亡くなりました。なんだか勝手に肥後藩初代忠利に似てるな……と思ってしんみりするオタクでした。(余談)

例② 服飾史にも名を遺す「三斎羽織さんさいばおり

 お次は総称の話。これは細川三斎が発案したものといわれている羽織の形状を指す言葉で、「そぎ袖羽織」「筒袖のぶっさき羽織」とも呼ばれているものです。(日本服飾史(https://costume.iz2.or.jp/word/wear.html)主な用語解説[衣]>さ より)
 筒袖で、背縫いの裾が割れている陣羽織ということなのですが、検索してみたら風俗博物館のホームページにちょうど良い写真がありました。

 またこちらのブログでも、袖の形状について分かりやすくまとめてくださっていました。参考までに。

 このように袖口がすぼまっていて、後ろ見頃が背中の中心でパーンと割れているタイプの羽織(近代になると「ジャケット」って感じがしますね)を「三斎羽織」と呼んだのでしょう。この形状を考案したのが、忠興(三斎)というわけ。戦場での動きやすさと機能性を重視した形だと思います。

 忠興が生きた時代は、ちょうど海外から宗教や新しい鉄技術(鉄砲など)、食べ物から服飾に至るまで、様々なものが持ち込まれ、混ざり、国内で更に進化をしていった頃です。若いころは現在の京都府は宮津市を中心に、そして九州へ国替えしてからは豊前国小倉、そして肥後国熊本と貿易が盛んに動く土地で常に新しい刺激を受けていたことと想像します。当然、諸外国から持ち込まれた「筒袖のジャケット」も目にしたことでしょう。
 彼は正室・ガラシャのこともあり、「海外文化に高圧的(懐疑的)」、「受け入れていない」と見られることも多々あるな~と感じるのですが、決してそんなことはなく、彼の御眼鏡に適った品々は積極的に取り入れられました。
 自分の国で貿易を行う海外の商人たちが、動きやすく機能性に優れた「筒袖の上着」を身に着けていたこと、それを自らの羽織に取り入れた姿が目に浮かびます。大変柔軟な殿様だったんですね。このへん全部妄想ですけど。

例③ 歌仙兼定かせんかねさだ晴思剣せいしけん

 おそらく現在において、「細川忠興」という名と共に……いえそれ以上に有名であろうものがこの二振りの刀の名前。「歌仙兼定」と「晴思剣」です。前者は大人気ゲーム「刀剣乱舞」に登場する刀として、後者はゲームには出ていないようですが、忠興公の性格を示すものとして歌仙兼定に負けず劣らず有名では……と感じています。

 この二振りの刀は、どちらも調べればいくらでも情報が出てきますので割愛するとして、ここでは刀にくっついている「逸話」に注目してみたいと思います。

 後世において「戦国一、気が短い」と称された細川忠興。これもまた逸話ではありますが、こうした側面が彼に見られたというのは、彼が愛用したと伝わる二振りにも浮かび上がっています。卵が先か鶏が先か……というような話ではありますが、どちらも細川家に残された刀であるということは間違いありません。
 特に歌仙兼定については、一時期細川家から出ており後々買い戻したとされていますがその時のエピソードがまたオツなもの。

細川家に代々伝わっており、細川家の道具目録『御家名物之大概』では、忠興から4男の立孝、4代光尚、5代綱利へと継承されたことがわかる。その後、家老である柏原定常が綱利より拝領して、1897年(明治30年)まで柏原家に伝わる。柏原家より流出後はいくつか所有者を転々とした後、昭和初期に侯爵の細川護立によって買い戻される。

ウィキペディア「歌仙兼定」より

 この時、当主であった護立公は「実際に忠興が使っていたかどうかは分からないが、忠興好みの刀だと思う」と称したとか。
 また、京都国立博物館2018年の特別展「みやこのかたな 匠のわざと雅のこころ」においては、主任研究員である末兼俊彦氏が「兼定作の刀は機能性・実用性に重きを置いているため、本来であれば美術的な魅力が乏しいものであるとした前提で、その様に簡素な刀をあえて差料に選んで拵に自身の美意識を傾けたのは、忠興ならではの選択である。」と称していたそうです。

 忠興の持つ美意識は「美しいもの」だけにあるわけではなく、やっぱり実用的な面や機能的な面にも大きく割かれており、こういったところに武将としての矜持やこだわりが見え隠れするんだな~~~~~~とオタク嬉しいです。やっぱり目に見えるものだけですべて語らないところが男気あるよね!!! こういうところ硬派だな~~~とか思っちゃう!!!

 「歌仙兼定」は現在、東京都文京区にある永青文庫が所蔵、「晴思剣」は熊本県にある島田美術館が所蔵されています。


 さていかがだったでしょうか。忠興公のこだわり、少しはお伝えできたでしょうか。相変わらずここまで読んでくださっている人がいるのか甚だ謎ですが良しとします。
 実物を観なければ実感がわかないというものも、多々あるもの。この記事によって、細川家が、忠興が残してきた数々の文化財を、皆様が目にするきっかけとなりますように。ご覧いただきありがとうございました。

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