小倉城で見た細川家の馬験(うまじるし)を語る
皆さん、今日も細川家家臣として頑張ってますか? 本日は「細川家に残されている馬験」について書き記してみたいと思います。
うまげん? いいえ「うまじるし」です。
細川家の……その前に、まず「馬験」とはなにか? ということについてお話します。
調べてみると、概ね意味するところは同じです。
要するに、武士・武家にとって「自分はここにいる」と示すための旗が「馬験」というわけです。室町時代の武士は兜の前立てで武威を示し、より派手に、華美に、目立って、カッコイイものに仕立てたというのは知られた話ですが、同様に馬験でも己の所在を示していたのです。甲冑に指す旗は「指物(さしもの)」と呼んだようですね。
武将たちのアイデンティティの表現方法
多種多様にある旗は大きさや形で違いがあるものの、明確にここからここまでが「幟」、「馬験」と分かれているわけではなさそうでした。
なにも「旗」にこだわっていたわけではなく、おそらくですがその形状や材質なども含めたうえで、武士・武家の思想や価値観を反映させていたのではと思います。自己表現、アイデンティティの表し方ですね。やっぱり、兜や甲冑などと同じように考えられる気がいたします。
細川家に残る「有字大馬験」
馬験(馬印、馬標)とは武士の世界観やアイデンティティを示すものの一つであったということは分かりましたが、細川家にも数多くの馬験が残されています。
今回、なぜ私がこの点について書こうと思ったかというと、福岡県北九州市にある小倉城の二階、細川忠興公の甲冑(レプリカ)が展示してあるケースの中に、二種類の旗があったことが始まりでした。一つは、忠興公より使用されている「九曜紋」の幟旗、今一つは「有」という一字が描かれた正方形に近い馬験です。これについて、ある方より「忠興公の後ろにある「有」の旗はどういう意味なのか?」と訊ねられました。
先に答えを述べてしまうと、「細川家の遠祖である細川頼有公の名前から取られたものである」ということです。
細川家に関係する博物館の展示などを見ていますと、時折この「有字の馬験」に出会うことがあります。細川家の収蔵の本拠地である永青文庫には、複数の「有字大馬験」が伝えられており、歴代が踏襲していました。
頼有公は南北朝時代の武将であり、足利将軍家などに代々仕え、同じく永青文庫には室町時代に描かれた頼有公の肖像画が残されています。
展示会に見られる「有字大馬験」
熊本県八代市にある八代市立博物館未来の森ミュージアムでも有字馬験が展示されたことがあります。「平成10年度秋季特別展覧会 八代の歴史と文化8 関ケ原合戦と九州の武将たち」という展示会でした。
2010年に東京国立博物館で開催された「細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-」展では、忠興公の嫡男となった三男忠利公所有の「大馬印 紺地白餅に有字」、「幟 白地紺九曜に引両」が展示されました。いずれも東京永青文庫所蔵の品です。2012年九州国立博物館で開催された同題の特別展示会は、2010年開催と地続きのものだったのでしょうか、同じく忠利公所用の二種が展示されていました。
2019年には熊本県にある島田美術館で「戦場にはためく験」展が開催されました。これはまさしく、ピンポイントに「験(しるし)」をテーマとした展示会。
なお、この時の展示会では「紺地有字大馬験」として、細川藤孝(幽斎)公が使ったとされるものが展示されました。縦170cm*横192cmの大型の馬験です。また、藤孝公は「二引両紋」も使用していたようで、これは足利将軍家の幕臣であった公が、かつて仕えていた足利義輝公より拝領したもの、と伝わっています。
家祖への誇りと細川のアイデンティティ
「有字大馬験」は江戸時代に入り、戦のない世となっても歴代が踏襲したようです。もちろん細川家を表すものとして、当主が受け継ぐべきものである、という理由はあったことでしょう。しかしそれ以上に、自らの血脈の祖、最初に「細川」を立てた人物を思うということは、やはり大大名としての矜持や言葉で表せない誇りというものが込められているのではないでしょうか。
終わりに
刀や具足など、ぱっと目につき、華美で派手なものは戦乱の武士たちを表現するものとして分かりやすいです。しかし、こうした背後にあるもの、今回で言えば「旗」、「馬験」というものからも、彼らの思いが感じられるような気がします。
皆さんも、ぜひこれを機会にご自身の殿様、つまり推し様の幟や馬験を覚えていただき、ついでに細川家の「有」や「九曜紋」も覚えていただいて、今後の戦国家臣ライフを楽しんでいただければ幸いです。
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