見出し画像

小倉という町と大名・細川忠興の関わり

 最近、細川の話してないなーと思いました。(唐突)小倉城のキャッスルカフェの話はよくしてるんですけど。
 と言うのも、先日、キタキュースタイルさん主催のエッセイコンテストの冊子が届きました。入賞者に送られてくる分に加え、クラウドファンディングも申し込んだので、計5冊が家にあります。実家や両親や友人に渡す予定ですが、せっかくなので1冊は手元に残すことに。
 自分の書いたものを読み返すと、小倉という街が好きだなあとしみじみしました。書いた当初は、メンタルめこめこ自己肯定最底辺人間だった時で、「誰が読むんや……」と意味のない苦しみに浸っていたものですが、まあ今読むと、なかなか良いものです。

 さて、私がなぜ小倉を好きなのかと言うと、やっぱり一番は「あの街は細川忠興が作った」という認識が自分の中に根付いているからなんですね。
 それで今日の記事は改めて小倉という街と、我が殿・細川忠興様の関係について、軽く触れるものを書こうと思います。

 そうそう、私は自称「細川家の家臣」と名乗ってます。歴女とは呼ばれたくない派の歴史好き。今更なんですが、どうか細川の家臣の人って呼んでね!(私の認知だと「歴女」って戦国BASARAが流行った時期に出てきた言葉だと思ってるんだけど(本当はどうか知らない)私はどうも「表面だけなぞる浅いファン」に対して侮蔑的に使われている言葉な気がしてしまって、ムズムズします。多分私だけ……)

 細川の家臣なので、殿様が作った街やお城、その理想、感性を知りたいと思うのは当然のことです。今風に言うと推しってやつでしょうか。推しのことならなんでも知りたいじゃないですか。何食べてたとか、どういうところに住んでいるとか。段々話がずれてきたな。

 小倉、そして小倉城や小倉城庭園には、細川忠興のアイデンティティが詰まっていると思います。そう、めちゃくちゃあるんですよ。京都や熊本でも見ることができますが、小倉も負けてませんとも!
 ここからが本題です。

関ヶ原の功績で豊前へ

 さて、細川忠興は1600年「関ヶ原の戦い」の功績により、豊前6カ国、豊後2郡を与えられ、現在の京都府宮津市より転封となりました。彼は京のお生まれで、半生を京で過ごしてきました。根っからの京都人です。(正確には現在の京都市ではなく、宮津市のほうですが)一族総出で大きな移動をしたのはこの時が初めてでしょう。江戸時代、最初期の頃です。

小倉城天守閣2階壁面パネルより それまでの領地から豊前へ国替えとなる

 余談ですが、ある逸話によれば、忠興は豊臣秀吉から会津の地を与えようかと打診された際、若輩の自分には分不相応だと言ったとも、京から離れたくないので遠慮したとも伝わっています。どんだけ京都好きやねん。
 まあ、30年も地元で生まれ過ごしていたら、愛着以上のいろいろなものもあったことでしょう。京の都には細川の親戚筋も大勢いますし、細川家は公家衆とも親しい間柄でした。あらゆる利便性や情報網などもあったのではないでしょうか。

豊前中津、そして小倉へ

 豊前国はやってきた忠興は、まず中津城へ入りました。中津城は現在の大分県中津市にあります。今行くと、細川よりも黒田官兵衛が築いた城として有名です。大河ドラマ「軍師官兵衛」の時にかなりヒットしたようです。
 細川氏は、黒田氏から豊前国を引き継ぐ形でやってきたので、まずここへ入ったのでしょう。

 しかし、忠興は一年程度で中津城を出ると、小倉で新しい城を築き始めます。これが、小倉城です。わざわざ場所を移した理由はいくつかあると考えられますが、やはり小倉という土地が交通・物流の拠点地だったことや外海に開けた土地であったことなどが大きいのではないでしょうか。
 小倉は九州各地へ通じる五つの街道の起点となる場所でした。

 今でも各方面に新幹線が伸びていますし、門司まで行けば船旅も可能です。私はこれを「小倉JC(ジャンクション)」などと呼んだりするのですが、あながち間違ってないと思います。

新しい土地を作るやり甲斐と自らのこだわり

 思うに、忠興は小倉という土地を自身の拠点に据え、さらにその場所を都に負けない街にしたかったのではないでしょうか。

 城下町としての発展は、細川氏の次に豊前を治める小笠原氏で本格化するわけですが、忠興の代でその基礎となる大枠が完成されたことは間違いありません。
 城の膝元(西曲輪)には上級武士たちの武家屋敷が並び、城内には本丸、天守閣、北の丸や米蔵などが造られました。川を挟んで東曲輪側はどうだったかというと、碁盤の目状に道を切り分け、町屋を配置して商人・職人たちの町としました。現在でも「魚町うおまち」「鍛治町かじまち」などといった町名が残っていますが、これは忠興の時代にできた名残だと伝わっています。小倉南区にも「嵐山あらしやま」という地名があるんですが、勘のいい皆さんがお気づきの通り京都の嵐山から取ったもの。忠興はこの地(徳力、長行、徳吉)を流れる紫川と、その沿岸の山の風景が京の嵐山に似ているとして名付けたそうです。また景観が気に入り、わざわざ京の嵐山から桜を取り寄せて、植えたとも伝えられています。プチ嵐山造設計画ですね。どんだけ京都好きなの。
 話がずれましたが、この東曲輪の出来が本当にすごくて、小倉の街中は今でもぎゅうぎゅうな狭い通路が縦横無尽に広がり、450年経った今でも健在なのです。流石に、地面はコンクリートになっておりますけども。

小倉城天守閣2階壁面パネルより 当時の町並みを再現した写真

 京都市内の町並みもいわゆる「碁盤の目状」で有名ですね。もしかしたら、忠興は自らが過ごした京の町並みをあえて真似したのかもしれません。(いや、最早そうなのでは?)その上で、有事の際にも効率よく兵を配置できるよう様々な工夫が施されました。忠興が織田~豊臣~徳川と、戦乱の世の最後を駆け抜けた武将だったことがしっかりと反映されている気がします。
 武士としても政治家としても、忠興はより発展したまちづくりを小倉で行おうとしていたのではないでしょうか。結果として、彼が作った土台は小笠原氏に受け継がれ、江戸期には国中でも有数の発展都市へと成長していきます。

 小倉という町と、大名・細川忠興の関わりについて少しでもお伝えすることができたでしょうか。頑張って真面目な顔して書いたんですが、そうしないと語彙が消えて「忠興様最高!」だけになっちゃいますからね。忠興のこだわりについては、まだまだ、いくらでも語れるのですが今日はこのあたりで筆を置きます。ご覧いただきありがとうございました。

閲覧いただき誠に有難うございます。よろしければサポートでの応援よろしくお願いいたします。史跡巡りや資格勉強の資金にさせていただきます。