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【”トロッコ問題”は操作しない派!】後悔と神様の使いようについて

今日はネタが無いので、「トロッコ問題」を話の起点としてみよう。


知ってる人も多いと思うが、一応書いておく。

線路を走るトロッコが制御不能になった。このままでは前方の作業員5人が轢かれてしまう。この時、あなたはたまたま分岐器の側にいた。あなたが分岐器を操作し、トロッコの進路を変えれば作業員5人は確実に助かる。しかし切り替えた先の進路にも作業員1人が作業している。あなたは分岐器を操作するだろうか。

Wikipedia

解決策は「分岐器を切り替えるかどうか」だけという条件だ。

線路に石を置いてトロッコを脱線させたり、作業員を移動させるのはダメ。

「そういう状況で人はどういう判断をするのか」を問うのが、この「トロッコ問題」である。


僕は「操作しないこと」を選ぶ。

それが5人の運命なのだと、その運命に抗うことはせず受け入れる。

こういう時のために「神様」という存在があるのだと思う。


「なぜ切り替えなかったのだろう」と後悔することはあると思う。

でもそれは、切り替えても同じことだ。

そして「切り替える」という決断をしたのは自分であるから、罪の意識はこっちの方が高くなる。(切り替えたからといって、何かの法に反することはないという前提だけど、罪の”意識”の話)

それならば、後の罪悪感を減らすためにも「操作しない」という結論を僕は選ぶ。


おもしろくない結論だろう。

というか、「操作する」か「操作しない」かの二択問題なので、「その考えおもしろい!」みたいな突拍子のない結論は出ないのである。

そして、こういうnoteとかブログとか、YouTubeとかTikTokみたいなものとか、そういう表現媒体では「操作しない」が多い気がする。

なぜなら論理的に物事を説明できるから。

「自分はこちらを選ぶ。なぜならこうでこうでこういう理由があるから」というように、要は「コンテンツにしやすい」ということ。

「操作する」という結論を選ぶ人ももちろんいるだろう。

だけどそれって「犠牲者は少ない方がいい」とか「5人の命を救った」とか、何と言うか「感情論」になりやすい。

もちろん賛同する人もいる。

だけどそれと同じくらい「自分の判断で1人を殺した」と批判する人も出てくる。

「批判はされたくない。だけど表現はしたい。」

これを達成するためには「論理的思考」が役に立つ。

だから文章であれ、動画であれ、表現されたものでは「操作しない」が多くなると思う。


というのが、さら~っと他の人の回答を見ていった僕の感想。

中にはルール無視で「トロッコ来てるよ!」と叫ぶだとか、「法に裁かれたくないから操作しない」とかっていう回答もあった。

僕だって現実的なことを言うなら、分岐器をガチャガチャして脱線させるし、「操作しない」を選んだとしても「神の仕業」ではなくトロッコの運転手、もっと言えば運営会社の責任だろと思う。

とはいえ、この「トロッコ問題」の意図は”思考実験”であり、”実際の問題解決”は求めていない。

意図があるのだからその意図に沿うように考えるのがいい。

なにより「もしも〇〇だったなら」という仮定の話ほど、おもしろいものはない。

歴史とか物語の「IF」を空想するのも好きな僕である。


いいね。

たまにはこういう思考実験を考えてみてnoteするのもいいかもね。

「くろだにこれを考えてみてほしい」というのがあったらコメントください。

なるべくおかしく考えてみます笑。


以上!くろだでした。

読んでくれてありがとうございました。

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ではまた👋

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