僕にとって、世界で一番大事なもの。
「サマーウォーズ」という映画が好きだ。
小さいときから何度観たかわからないくらい好きだ。
大概、この映画が好きな人とはすぐに打ち解けられる。そんな気がする。
ちょっと気になって調べてみたら、2009年に公開された映画だった。ということは今から13年前?僕は当時まだ9歳だから、小学3年生とか、それくらいかな。
この文章を読んでくれている人のほとんどは、この映画を観たことがあると思って話そうと思っていたのだけれど、最近「サマーウォーズを一度も見たことがない人」に出会ってしまったから、少しあらすじを書き連ねることにする。まったくかまいたちのネタかよ、などと思いを馳せてみるが、出会ってしまったものは仕方ないからね。そんなにネタバレはしないように努めるけれど、読むのが億劫な人は飛ばしてもらったっていいんだ。
物語は「ほぼ平成」を舞台に、主人公・都会の高校二年男子「健二」を軸に始まる。
「夏といえばスイカと花火と女だろ?」
という友人の言葉に「スイカと花火で十分だよ・・・」と半ば呆れながらツッコミを入れる彼。ここからでも彼の「へなちょこぶり」当時風に言えば「草食系男子」ぶりは見て取れる。
しかしそんな彼にも密かに気になっている先輩がいて。その先輩「夏希」と一緒に田舎に行くバイトに彼は手を挙げる。
しかし彼を待っていたのは夏希の大家族。
夏希には「恋人のフリをして」と予想外の業務。そこでの夏休みを描いたドタバタ青春SFである。
夏はわかった。しかし何が「ウォーズ」なのか?というのがこの映画の肝だと思う。
まあそれは映画を観てくれれば、と思うわけだが・・
さて。もちろんこの映画を一言でいえば「高校生のラブ・ストーリー」でもあるのだが、
僕はこの映画を「家族の物語」だと思っている。
とにかく映画の中には登場人物が多い。家系図をつくればざっと30名ほど「モブとはいいがたい」血縁関係のある人物が描かれる。それに対して「健二」が圧倒されるシーンもある。
映画を通して読み取れるのは家族は協力すべきだ、というメッセージで、それは「現代っぽくない」そんな気もする。
ただ、僕は家族が大好きだ。
僕の父は耳が聞こえない。でも、それに対して僕が「いやだな」とか「なんでうちのパパは耳が聞こえへんねん」という負の感情を持ったことは一度もない。
身振り手振りと目で会話するのが当たり前のことだった。
その代わり、といっていいのかはわからないけれど、父は身体能力が異常に高い。ほとんどのスポーツは経験済で、中でもスノーボードとボウリングはプロ級だった。車の運転も想像を絶するほど上手く、大型バイクにだって乗る。僕のアウトドアっぽい趣味のほとんどは父から教えてもらったものだ。
父は「他人を悪く思う心がない」人だ。
彼が誰かを悪く言ったり、行動に評価をしている場面を生まれてこの方、一度も見たことがない。
父親のようになろうとは思わない。たぶん父のようには僕はなれないし、僕は僕だし。ただ、少しでも彼のいいところを目指せたらいいなと思う。
その父の父、僕にとっての祖父は5年ほど前に他界した。
おじいちゃんは畑とともに生きた人で、僕にもよく「かずきも畑仕事するか!!」と声をかけてくれていた。でも、当時はなんだか反抗期だった僕はそれに面と向かって返事することができなかった。僕はそう「おじいちゃん子」ではなかった。でも、葬式で参列するおじいちゃんのお友達たちを見ていて、なぜか涙が止まらなかった。こんなにも慕われていたのか、と衝撃を受けた。
それは僕の目指すような「でかい男」そのものだった。
彼がいなくなってから、彼の偉大さに気付いた。僕はなんとなく「栗林」と呼び捨てにされるのが好きではない。理由は「なんだか僕ではなく、おじいちゃんを含めた栗林家の祖先を呼び捨てにされているような気がする」からだ。何を言っているのかよくわからないと思う。僕も論理的にはわからない。
母は昔、幼い僕にとって「超人」だった。
いかに僕が絶望的状況にあり、悲しい気持ちになっていても、母さえいれば大丈夫だという根拠不明の「絶対的安心感」があった。
特に母の存在を強く感じたのは「中学受験」の時だった。
僕は田舎の小学生で、受験という選択をする家庭はそもそも周りにはほぼなかった。
中学受験の合格を決めるのは「父親の経済力、そして母親の狂気」
というのは『二月の勝者
』の冒頭文ではある。これが言いえて妙であるか・真実かどうかはここでは議論しないものとするが、この一文が指し示すように「母親」は中学受験においてかなりの影響力を持つ。
僕の母は基本的に「あんたが行きたいところに行ったらええ」スタンスで、
それはどの受験でも変わらなかった。だから、小学生の僕は期待されていないまでは思わなくとも「正直そこまで熱があるわけじゃないのかな」と思っていた。わが子に期待しすぎて、激情を小学生が大勢いる塾で披露する「ほかの過程の、わかりやすく狂気じみた母親」を見ていたから。
僕の通う塾では「受験体験記」という、受験を終えた生徒の経験談を集めて一冊の本にしたものが毎年発刊されていた。受験を終えた僕はもちろんこれを書いた。母もどうやら、こっそり「保護者体験記」というものに応募していたようだった。しっかり掲載されていた母の文章をチラ見した。母のまとまった文章を読むのは初めてで、なんだか恥ずかしくて何年かは読めなかった。でも、意を決して読んでみた。そこに綴られていたのは、自分でいうのもおかしいのだが「息子を思いやる母の気持ち」だった。特に「受験会場に立った誇らしげな息子の姿を見て、目頭が熱くなった」「合格などどうでもよいと感じるほどに、彼の成長を感じさせてもらった」という旨の言葉(もうさすがに原文は覚えていない)はストレートに胸に響いた。「熱くなっていない」なんてとんでもなかった。
今でこそ人並みに丈夫になったが、元来僕は、とても体が弱い。
生まれてすぐに心臓病を患い、救急車に運ばれることなどザラ、通院カードでデッキが組めるほどだった。
受験は全部で5日間あったが、確か一日目の受験が終わってから体調を崩し、お風呂に入るのは「体力を持ってかれる」と判断した母は二日目の朝に洗面台で僕をシャンプーで洗ってくれた記憶がある。精神も強くなかった僕は過度の受験期のストレス(?)から夢遊病らしきものにも悩まされた。(でも寝ている間の記憶はないので、実際に悩んでいたのは母たちであったはずだ。)母がいたから当時の合格はあったし、ここまでの僕が進んでいた道はほぼ母が丹念に整備してくれていた道だったことを思い知った。
妹の話もしておく。
小さいころ、僕はとても人見知りで臆病な少年だった。
それに対して妹は活発にして社交的、明るい性格で友達を作りまくり、なんにでも挑戦しまくった。
そのせいで幼子の僕も「挑戦せざるをえなかった」のだ。父が毎年のように連れて行ってくれたスキー場。雪山を滑走するのが怖い僕は毎回そり滑りでお茶を濁していたが、彼女は「私そりじゃなくてスキーしたい!」とスキー板を履いてずんずんと滑っていく。本当は全く滑りたくなかったしスピードも出したくなかったけれど、お兄ちゃんとしてやるしかなかった。だって妹がしているのに兄ができませんではかっこ悪いじゃないか!
まあ、実をいうとお兄ちゃんが出来なくて妹にできることは山ほどあった。ピアノ、水泳、お習字、習い事において「二つ下の妹」の才能は基本的に全て僕を凌駕した。でもハングリー精神に欠ける僕からすると、特に悔しいとか悲しいとか、つらいみたいな気持ちはなかった。
これは両親が早い段階で「僕と妹に別々の道」を進むように導いたからだとも思う。競う必要がなかった。
余談だが、妹は僕を必ず「お兄ちゃん」と呼ぶ。
たとえ喧嘩していても、鬼神のごとく憤怒していようと「お兄ちゃん!!!!(怒)」と叫ぶ。決して「かずき!」「バカ兄貴!」などとは呼ばない。まあでもよく考えればそんな呼び方している人、漫画以外であんまり見たことがない。ここから得られる教訓は特にない。だから余談なのだ。
僕は柔道を、妹はダンスを小学生になる前に始めていた。
ダンスでも彼女の持ち前のセンスはいかんなく発揮された。タコ踊りしかできない僕は素直に「すげえな」と思った。よくわかっていないが、ジャズとヒップホップが彼女の専門領域らしい。へー。妹が何をしているかはそんなにわからない。でも、精一杯応援出来たらいいなと思う。
あまりに書くと疲れてしまうから、これくらいで。
とにかく僕は栗林家が大好きだし、家族の話が大好きだ。家族の行事ごとは「なんやこれ」ともたまに思うが、結構すきだ。家族で集まって何かをするとき、これが一番幸せを感じる時かもしれない。
たまにめんどくさいときもあるけど。それでもいつだって。