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障害者は「生きててごめんなさい」って思いながら生きてほしい人たちは「べき」に囚われている

過激なタイトルだけど、世の中にはこういう考えを持つ人たちもいるんだよね。

『障害者は障害者らしく立場をわきまえて、常に健気で謙虚で、従順に振る舞ってほしい。決して健常者の邪魔をせず、社会の片隅で控えめにひっそりと生きてほしい。
「生まれてきてごめんなさい、生きててごめんなさい」って申し訳なく思いながら、生きていてほしい。』

障害当事者への軽蔑と侮蔑と偏見に満ちた言葉として、嫌悪感をもつ人も多いと思います。書いてて自分でも腹が立ってきたけど、実はぼく自身も、健常者時代、こう思っていた時がありました。

「障害者でも、自分らしく生きたい」と言う障害者を見て、
「障害者のくせに生意気だ」と思いました。
「障害者が生きやすい社会にしてほしい」と主張する障害者に対して、
「社会のお荷物の分際で、わがままを言うな」と思いました。

『障害者が自由に幸せに生きる』なんて、
ありえない事だし、あってはいけない事だと思っていたのです。

ありえない事、というのは、障害者は不幸だから幸せになれない、という思いからでした。
障害者は弱者で、弱肉強食の世の中では虐げられる側。だから不幸だし、幸せにはなれない。
弱者は不幸だ、という思い込みが強かったのです。

そして、あってはいけない事というのは、社会の足かせである障害者は幸せになってはいけないという考えからでした。
障害者は弱者としての立場を、よくわきまえなければならない。
社会に生かしてもらっている立場なのだから、口答えしてはならない。
生きている事が恥ずべき事で申し訳ない事なのだから、でしゃばってはならない。

障害者は、幸せになってはいけない。

こういう考え方でした。
だから、『障害者ですが幸せです』と言っている障害者に対して、
障害者が幸せな訳ない、幸せになるべきじゃないんだと、憤りの気持ちを抱いていたのです。

障害者は生きててごめんなさいと思いながら生きてほしい人たちって、
『べき』論が強い
んだと思う。

障害者は立場をわきまえるべき。
常に健気で謙虚でいるべき。
従順に振る舞うべき。
決して健常者の邪魔をせず、社会の片隅で控えめに生きるべき。
「生まれてきてごめんなさい、生きててごめんなさい」って申し訳なく思いながら、生きるべき。

この『べき』論は、周りだけでなく、自分の首も絞めます。

社会人はバリバリ働くべきだ…もし働けなくなったら?
障害者は障害者らしく生きるべきだ…もし障害者になったら?

『べき』に囚われすぎていると、自分がその『べき』ができなくなった時、またはその『べき』をしなければならなくなった時、自分の存在意義が分からなくなってしまいます。
『障害者は生きててごめんなさいと思いながら生きるべき』と思っていたぼくも、いざ障害者になった時、そのブーメランが跳ね返ってきました。

『自分は生きていてはいけない存在なんだ』と絶望し、希死念慮に襲われました。
『自分は障害者だから幸せになれない、なってはいけない』と、強迫観念を持つようになりました。

ですが今、ぼくは「幸せだ」って堂々と言えるし、
「生きていてごめんなさい」とは思いません。

だって、謝る必要がどこにある?
『障害者は生きててごめんなさいと思いながら生きろ』なんて、誰が決めた事でもないよね。

申し訳なく生きる必要なんてどこにもない。
それは障害者でも健常者でも同じ事だと思ってます。

健常者障害者問わず、『べき』に囚われない社会に、そして誰もが幸せに生きられる社会に、なっていってほしいなあ。


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