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“才能”という一言で自身の能力を否定してはいけない

日本人の間で古くから高く評価され、人気がある歴史的人物に諸葛孔明(しょかつこうめい)という人物がいる。

孔明は中国の『三国志』に登場する蜀漢の初代皇帝劉備、二代目皇帝の劉禅に宰相として使え、その天才軍師としての活躍ぶりや君主に対する高い忠誠心や義などで人気を博している。

その孔明が書き残した『誡子書』(かいししょ)という書物は、孔明が息子である瞻(せん)に向けて書き残したもので、孔明の死後 1800 年近くたった今もなおその「志」は諸葛家の家訓として諸葛家の子孫に伝えられている。

誡子書には以下の一節が記されている。

 優れた人は静かに身を修め、徳を養う。
 無欲でなければ、志は立たず、
 穏やかでなければ道は遠い。
 学問は静から、才能は学から生まれる。
 学ぶことで才能は開花する。
 志がなければ学問の完成は無い。

孔明は「才能は学から生まれ、学ぶことで開花する」と述べている。

才能と聞くと天才や超一流のスポーツ選手が持つものと捉えられる傾向があるが、才能とはあくまで生まれつき備わっている能力のことで、天から与えられたような輝かしい天賦のものや一級品の能力だけを指すわけではない。

子供の頃や若い頃に持っていた根拠の無い自信を自分より優れた才能を持つ人によって打ち崩された経験は誰しもあるはずだ。
中には自分の凡人ぶりに絶望し、「自分には才能がない」と取り組んでいたことを止めてしまった人もいるかもしれない。

確かに、一級品の成果を出すためにはそれに見合った才能が不可欠だ。
努力や訓練によって誰もがプロスポーツ選手になれるわけでもないし、努力や予備校しだいで誰もが東大に入れるわけでもない。

遺伝子研究が進み、最近では「全ての能力が遺伝で決まる」とも言われているし、才能がない主人公が努力によって天才を打ち破るという漫画やドラマが減り、才能ある天才がその能力で敵を打ち破る痛快ストーリーが増えているが、孔明曰く、どんなに才能があっても学びが無ければその才能は開花しないどころか生まれてきさえもしない。

「どうせ自分には才能がないから」と学びを止めている人は、レベル差はあれど才能は誰もが持ち合わせていること、学びによって磨くことが可能だと認識を改めるべきだ。

生きるためには学びが必要だ。特に資本主義や競争社会では学びを止めるとそれなりの社会的結果を受け入れなければならない。

「才能が無いという」一言は学びを止める理由にはならない。才能は環境や努力で、いくらでも生み出されるし、磨くことができる。

学ぶことは可能性の追求だ。自らの可能性を信じることで学ぶ意欲は幾らでも湧いてくる。

暗い世の中だからこそ「自分はできる」と前向きに自分を鼓舞し続けることが大切だと僕は思う。

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