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さよならピエロ、明日はきっといい日になるよ。

 私が道化だったら、もうちょっとだけ楽に生きられただろうか。

 心に刺さったままの言葉の数々を確かめるように口にする。棘は抜けず、だらだらと血を流している。刺さった棘も私の一部だ。それを言っていいのは、私だけだけど。

 人のことをいじって場を盛り上げる、ということがこの世の中では行われている。「いじる」ということを楽しいと思う人間がいる。それは、「いじられる」側の人間がいるということだ。

 私は普段から鈍臭くて、抜けてて、器用では無い。失敗も多いし、思ってることが顔に出やすく、反応が良い。自覚はないけど、そうなのだろう。

 だから、ターゲットにされる。「いじられる」側の人間だ。それに甘んじることもある。場のために笑うことも、受け入れることもある。でも、傷つくことだってある。

 人が嫌がっている姿を見て喜ぶ人がいる。「えー、ひどい!!」と怒っているのを楽しんでいる人がいる。

 自分がされたときも、他人がされているときも、私の中のラインを超えた「いじり」を見ていると不愉快になる。そのラインが、年々厳しくなっているような気がする。

 何が嫌なんだろう、と自分のことを振り返った時、自分という存在が雑に扱っていいおもちゃのように扱われている、という結論に至った。

 遊んでる側は、楽しく遊ぶためにおもちゃを投げたり踏んだり、床に叩きつけたりする。雑に扱えば壊れるけれど「こんくらいで壊れないでしょ」と決めつけている。

 他人のことを「このくらいでは傷つかないでしょ」と決めつけて遊んでいる。「嫌だ」といえば、「この程度で傷つくなんて弱いやつだ」という人すらいる。

 そのうち、おもちゃにされた人間は声をあげなくなる。抵抗しても無駄だと学習する。笑うようになる。自己防衛のため、道化になろうとする。

 どうせ届かない叫びをあげたって無駄だ。まだ心が残ってる人ならば「嫌だ」と本気で伝えれば、謝るかもしれない。でもどうせ、繰り返す。知ってしまった快楽を断つのは、想像を遥かに超えて難しい。

 私の中学からの友人は、私のことをいじったりしない人だ。いつだって優しく、何か失敗をした私を心配し、慰め、励ましてくれる。それは、甘やかすとは似て非なる優しさ。

 優しい人は、辛さも優しさも知っている人だと思う。快楽に溺れて人を嬲る人間は、辛さへの想像力が欠けた人だと思う。あるいは、自分に余裕がなく、人を貶めることで楽しみを見出している人なのかもしれない。

 自分より劣った人間を見下して、強いと思いたいのかもしれない。それは弱さだ。誰もが持つ弱さだ。

 私に弱さがないとは思わない。どちらかと言えば弱い人間だし、「優しい人間です」だなんて言えない。私は、自分の我儘で自分勝手で幼稚なところが嫌いだ。

 それでも、他人を傷つけてまでいじる人のことを好きにはなれない。うまくできる人ならいい。でも、誰も傷つけることなく、人をいじって遊べる人なんていないと思う。

 傷つけてくる人はいつも、「私はいじっていいラインをちゃんと見極めてるから大丈夫です」と澄ました顔で言ってくる。

 馬鹿言ってんなよ、いじられる側の人間が諦めてるだけで、傷ついてないなんて一言も言ってない。「大丈夫、気にしないよ」の言葉の裏に に、貴方への諦めや、場への配慮や、さらに傷つくことへの恐怖が隠れているだけかもしれないと、なぜ想像がつかない。

 「傷つきました」と声をあげるのは怖い。相手は言葉の武器を持ってかかってくる。嘲笑にずたずたと引き裂かれた心は、声をあげる気力すら奪っている。許せるギリギリのラインまで、たとえ不快であっても諦めてしまう。

 人間関係を円滑にするには、諦めも受容も必要だ。対等な関係を求めても、そんなものはない。大なり小なり、上下は存在してしまう。

 最近になってようやく、「嫌だからやめて」と言えるようになった。もともと自己主張ができるタイプだったからかもしれないけど、ようやく傷つけてくる人間を友達にしてはならないと学んだ。

 親戚や、仕事で関わる人間は選べない。それでも、友達は選んでいい。私を傷つける人間に、私が優しくする必要はない。わざわざ「君は他人を不快にしているよ」なんて教えてあげる優しさすら、無駄だ。

 嫌な相手とは関わる頻度を減らして、心を守ったっていい。「仲良くして」と言われても、曖昧に笑っていい。無駄に反抗することもなく、離れてしまえばいい。勢いよく振り払う必要もない。

 少しずつ手を離して、穏便に「さようなら」をしよう。

 私は、あの子のための道化になんか、なってあげないんだ。

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