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【読書記録】「深い河」/遠藤周作

 私はどちらかというと、玉ねぎを信じていない。それでも、生と死が集まる、悲しみと愛しさを集めたようなガンジス川については、とても興味があった。

 まだ私が社会人1年目のとき、一度だけ「深い河」を手に取ったことがある。あの時の私は、どこかに行きたくて救われたくて、でもそれは許されないから全てを無に帰すようなガンジス川に行きたかった。ガンジス川のことも、ヒンドゥー教のことも知らず、ただそういうものだと思っていた。

 遠藤周作といえば「海と毒薬」のイメージが強い。暗い雰囲気、文章から伝わるじめっとした冷たさ、熱さ。「深い河」も同じく、むわっとしたインドの湿度が肌に伝わるようで、珍しく2週間かけて物語と向き合うことになった。

 この小説は、なにかを失った者にフォーカスを当てる。最初に出てくる磯部は妻を、美津子は大津を、沼田は九官鳥を、木口は戦友をそれぞれ亡くしている。ただ簡単に書き並べるだけではわからない、登場人物が抱えた喪失感を読者はぬるい風を頼りに知るしかない。

 冒頭にも書いた通り、私は玉ねぎを信じてない。私の中に玉ねぎはいない。玉ねぎはとは、本書において「神様」を指し示す。美津子は大学時代に身体を交わした大津を、神様に奪われる。大津は、神様を信じその救いを胸にしながらも、己の信じた宗教と教会を追われる。

 日本人は特定の宗教を持たない者が多いという。仏教が一般的と言われるけれども、真に仏教徒である人間がどれほどいるだろうか。あるいは神道も。

 私は寺社仏閣を巡る旅が好きだ。そこに信心はないが、ただ神様の座す庭や空気、積み重ねられた信仰が染みついた土地をみると、胸がすくような気がする。神様はいると思う。それは人の心に住まう救いだが、私はそれを信じてはいない。神様はただ、私を見てくださるが救ってはくれないからだ。

 この物語の後半、ガンジス川を見つめては人々が己の胸の内を吐露していく。沐浴する人々をながめて、戦友を弔っている。一方で、観光客のステレオタイプのような人も描かれる。そのバランスが、「深い河」の読者の心のバランスを暗さに傾けすぎずにしているようにも思った。

 いまの私がガンジス川に訪れたとして、それは観光以外のなにものでもないのだろう。この物語の時代とはずれるが、スマートフォンを片手にガンジス川を写すように思う。きっと濁った川を見て沐浴をしようとは思わない。美しい絹と寺を見て薄い感想だけを抱いて帰ってくるに違いない。

 その方が良いのかもしれない。失ったものがないからこそ、ガンジス川に深い愛を感じずに済む。

 何かを抱えたとき、きっと私はまたガンジス川に向かいたくなる。一度も行ったことがないくせに、この本を読むとそうせねばならない気になる。サリーを買い、この身を濁った川に浸すのだろうか。その時はきっと、この本を手にしている。

 まとまりのない読書記録になってしまった。ただ、もう一度「深い河」を読む時はなにかを失った時に違いない。

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