7月7日 ガンダム 水星の魔女を見る

最近は物語を摂取するのにさえ、少なくない気力を使う。
見たいと思う作品は数あれど、体も頭も心もついていかない。「見れる気がする…」という感覚が起らなければ見られない。そんなバカな、と思うかもしれないが、感覚的にそうなのだ。

有名な新書、稲田豊史「映画を早送りで観る人たち」の中で、
ネタバレや結末を見てから作品を観る若者の事例について、
その理由を感情的エネルギーの消耗軽減とする例がある。

これを昨年の健康的であった私には理解できなかったが、
最近の感覚はおよそこの事象に近いと自覚している。

今まではシリーズものを毎週追いかけるのが面倒なので、
一気に見れるようになるまで、機が熟すのを待っていた。

しかし、今回ガンダムを一気見するつもりが5話で止めた。
1話から掴まれ、テーマもエンタメ性もセリフも良い…!
期待以上におもしろいのに、続けて見る気力がない。

どうやら見る機会が熟すのを持っていたわけではなく、
自分の見られる気力が満ちるのを待っていたのだと悟った。

いわゆる最近の若者というのは、ある意味で病んでいる。
それは無自覚に、ナチュラルに、カジュアルに病んでいる。
一般的に見ると病んだ状態で、生きるすべを身に着けている。
そんな免疫を持つ新人類なのではないだろうか、と最近思う。

それは観測する視点によって、イカレているし病んでいるし、
同時に、治っているとも発症してないとも言うことができる。
苦しむ人も問題視する人もいるが、大抵は楽しそうに見える。

私はこの世代観のようなものに深い興味をそそられる。
それと同時に、苦しみ、妬み、貶し、羨む対象でもある。
…妄言だと思ってもらって構わない。


いつもの脱線もほどほどに、水星の魔女の感想を書きたい。
思ったことを纏めず書き散らす。以外ネタバレを含む。

・ダブルヒロインという設定について
本作の主役はダブルヒロインであり、両者ともに女性である。
しかし、ストーリーの展開によって、花婿と花嫁の役をもつ。
ヒーローとヒロインであり、友人であり、姉妹であり、
光と影、父性的規則と母性的感覚など対象的でもある。
様々なテーマを同性に仮託し、一見ジェンダーレスに描く、
また、百合的にも機能する、その設定にまず感嘆する。
より強い男性性や男性原理については、他のキャラにのせ、
今後の展開で様々なテーマへ触れる懐の深さを予感させる。

・資本主義、競争社会、男性原理の企業的世界観
未だ5話までの段階だが、従来のガンダムの世界観と異なり、
人種・国家的な意識より、企業間の利得が強い対立軸である。
しかも、企業間競争でも、同じグループ内らしく、ミクロだ。
競争の中で上位の利益を生むものが価値であり、権力であり、
ルールであり、その中身は問われず、結果が全てである。
決闘の宣誓も、展開も、そのテーマを良く表現している。
勝者と敗者、強者と弱者で分けられるアンフェアな競争世界。
既に力(資本・既得権益)を持つものが常に有利であり、
不利になればゲーム自体を管理、または介入する。
そこには道徳的や倫理はなく、利益だけがある。

・大人と子供、支配者と被支配者、生きるための力
社会で働く親(大人)と、学生である子供の話が進む。
大企業の社長の子供たちは、道具として親に使われる。
彼らの価値は、本人に認められず、親に定められる。
子供は親に育ててもらっており、抗うすべを持たない。
そして、未だ子供の彼らには自ら利益を生む力がない。
つまり、親たちの生きる競争社会の中では無価値なのだ。
彼らの価値は、親に利益を与える存在としての道具として、
又は成長しより稼げる力を持つことでしか生じることはない。
彼らはそういう呪いを受けてしまう。(ただ利用もできる)

親は子供を守り、社会で生きられる大人に育てようとする。
それは前提として、子供そのものが価値であるからだ。
しかし、その過程において、大人は子供を支配する。
支配・被支配、強者・弱者、利益を価値とする市場原理で、
子供の人生を、生きる価値を、無自覚にも蹂躙する。
これはあまりにも悲しいことだが、現実にある。
子は授かるものではなく、つくりつくられるものになった。
宗教的規範の失われた価値観の中で、親は神に等しい。

面白いというか現実的なのは、支配は同時に保護でもあり、
支配との対決、被支配からの脱却に力は必要不可欠なのだ。
彼らは支配者のルールで価値を生み出す以外に生きるために、
自ら、または他者の力を利用してそれを打倒する必要がある。
自らの価値を望むなら、それを勝ち取る力を求められる。
決して理想だけでは飯は食えないのだ。

・自らの生きる意味と価値、その拠り所
あくまでも5話までの話だが、アイデンティティについて、
ミオリネ・グエルと、スレッタ・チュチュは対象的である。
前者は親の支配・保護下での価値基準をその身に受けるが、
それを押し付けられたある種の呪いとして受けている。
彼らは自らの意思や自由を望む。しかし育った価値観では、
それは自らの存在が無価値になるという恐怖と不可分だ。
後者は、親の保護下にありながら、自らの意思と価値を持つ。
そして、親や育った共同体を尊敬し貢献を心から願っている。
それが生きがいであり、価値であり、喜びであり、夢である。
ミオリネはスレッタのそれを「重い」と理解できないが、
彼女が挫折し諦めようとするとそれで励ますのが印象的だ。
…やはりナショナリストに少し憧れてしまう。

感想、というか主に考えたことはこんな感じである。
5話まででこれだけ楽しめるのだから、もはや怖い。
繰り返されるメッセージ「逃げれば一つ、進めば二つ」は、
この世界観のなかでも偽りなく、優しく、希望的に響く。
しかし、それを教えてくれたスレッタの母の目的は何か、
とても興味深い。今のところ娘を利用しているが…。
これからの展開が非常に楽しみだ。

完結したのに今更…なnoteを書いたなぁと最後に思った。















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